ハテナのごとく!

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雑問偏重日記

"付録のついたブログ"

 

現在、日本の輸入の99%は船によるものだと言われていますが、近世までの船の歴史について触れてみます。

ユーリ・ガガーリンが「地球は青かった」と語ったように、現在僕らが住む惑星の70%は海に占められています。よって人類はこの7割を移動する方法を古来から考えてきました。原始的かつ簡易な舟であるイカダが発明されたのは紀元前1万年ほどとされており、これは紀元前3700年頃に登場した車輪より圧倒的に早く、舟は人類最古の乗り物だとされています。中国浙江省にある河姆渡遺跡(かぼと-)では紀元前5000年頃の「パドル」や、イカダをより進化させた「丸木舟」が発見されており、そういった事実からも舟の歴史を伺い知ることができます。

やがて古代エジプトで帆船が発明されると、紀元前1世紀ごろには「ジャンク船」に代表される大型船も登場し、「海のシルクロード」の開拓に大きな功績をもたらしました。

さて、時代は飛んで中世にもなってくると、ご存知羅針盤の発明により大航海時代が巻き起こったことによって、船は交易の主流となります。当時は三角と四角の帆を張り合わせた、まるで海賊船のような「キャラック船」という大型船が主流で、マゼラン艦隊はこれで世界一周をしたとされています。またこうした大型船は香辛料の輸送だけでなく、奴隷を運搬するものとしても機能するという負の歴史を生んでいます。

こうして長く活躍した帆船ですが、19世紀にもなると淘汰されていくようになります。これは1869年にスエズ運河が開通した際、それを通る地中海域には風がほとんど吹かなかったということもあるのですが、なんといっても産業革命によるものが大きいでしょう。日本では「黒船」と言われたような大型の蒸気船など、蒸気によってこれまでにない全く新しい船の動力がもたらされました。

そこで問題です。

19世紀中頃にはイギリスで蒸気を用いたスクリュー船が開発されましたが、当時のイギリス海軍はこの性能を懐疑的に見ており、なかなか従来の外輪船から脱却しようとしませんでした。そこでスクリュープロペラの特許を持っていたフランシス・ペティ・スミスなる人物は、自身が設計したスクリュー船「ラトラー号」とイギリス海軍の外輪船「アレクト号」を「ある方法」で競わせました。この結果ラトラー号が圧勝し、以降スクリュー船が中心となっていくのですが、その「ある方法」とは何でしょう?

 

大政奉還から少し経った1875年、大久保利通木戸孝允板垣退助らが集結して開かれた大阪会議により、明治政府は今後欧米諸国を見習い、三権分立の体制を築くべきことを定めた「立憲政体樹立の詔」を発布しました。そこで体制の根幹を成す憲法を作っていこうとするのですが、ここでひとつ問題が起きます。内閣内で「イギリスを手本にするべき」と主張する大隈重信と、「ドイツを手本にすべき」と主張する伊藤博文の間で対立が起きてしまうのです。大隈が主張したイギリスの政治というのは、王は一切関知せず内閣のみで政治を行うというもの。一方伊藤が主張したドイツの政治というのは、王(皇帝)が絶対的な権力を持ち、王の命令の下政治が行われるというシステムです。こう見ると現在の国会にも近いイギリスの政治手法の方が先進的に思えますが、伊藤曰く、まだ明治維新から間もない日本にはイギリス式は難易度が高く、王(天皇)の命令で政治を行う方が安定するからとのことだったようです。結局意見が通ったのは伊藤の方で、大隈は先に起こっていた開拓使官有物払下げ事件の影響もあり、「明治十四年の政変」で政府から追放されてしまいました。

さて、そうなると忙しくなってくるのは伊藤で、以前岩倉使節団の一員であった際にはオットー・フォン・ビスマルクらに影響を受けたこともあり、1882年には再びドイツ・イギリスなどに滞在します。そこでは大学で憲法学者の講義を受けて学ぶなどして情報を持ち帰り、帰国すると爵位制度なども定めた伊藤は、1885年に太政官制を廃止し、ご存知の通り自らが総理大臣となって欧州を手本にした内閣を開設しました。

では、ここで問題です。【漢字2文字で回答】

公家の出身で、後に代理の総理大臣も務めている三条実美という人物がいます。実は彼は1885年に内閣が作られた当初、初代総理大臣の候補として伊藤博文と共に挙がっていたとされています。しかし、伊藤の友人であった井上馨が「『これ』ができないと駄目だ」と発言したことにより三条は初代総理大臣の座を逃しました。では、現代社会でも重要とも言える「これ」とは何のことでしょう?

 

古来から化粧というものは多くの人々にとって命を賭してでも美を追求するアイテムでした。昔は男性も化粧が行うのが一般的であり、古代エジプトではコールと呼ばれる鉱石から作られたアイラインが有名です。これは、単に目元を目立たせると言うだけではなく、コールに含まれる成分が虫除けにもなったと伝えられています。

こうした化粧文化の歴史にはには面白い話があるので、4つほど箇条書きで紹介してみます。

1.プリニウスの代表的著書『博物誌』では「子牛の蹄を数十日煮詰めてトロトロにしたもの」を今でいうパックの材料として使用していた。

2.16世紀ごろにメディチ家に仕えた「大予言」で有名なミシェル・ノストラダムスは、当時のメディチ家の当主カトリーナに「シミ消し」として、ニワトリのフンをレモン汁で蒸留したものを献上していたという記録が残る。

3.暴君として有名なローマ皇帝ネロの妃・ポッパエアはミルク風呂に入るために500頭のロバを飼育し、さらに100人以上もの奴隷を駆使して半日に渡る化粧や身体のケアを行ったとされる。

4.魏を建国した三国時代の有名な英雄・曹操は天下統一を目指していたため「統一」に異常なまでに拘った。結果として、魏の女性は左右の眉毛を一つになるように繋げたという。この眉毛を一つにする文化は現在も中央アジアを中心に残っているらしい。

他にもまだまだありますが、こんな感じでしょうか。時代はもちろん、地域によってもさまざまな見せ方があるようですね。

さて、冒頭で化粧のことを「命を賭してでも美を追求するアイテム」と表現しましたが、これは何も比喩ではありません。例えば中世ヨーロッパで使用された「ベラドンナ」という植物の汁は瞳を大きく見せる効果があったのですが、これには毒が含まれており失明する人がいたという話もあります。さらに19世紀前半、女性の中で「体を不健康に見せて弱々しさを見せる」というオシャレの風潮があり、貴婦人たちは体重を落としてやつれるばかりか、夜更かししてクマまで作るようにし、極めつけは体に黄疸ができているように見せるため顔を黄色に塗ったと言います。そして何より近世までもの間、貴族の間では体に有害な鉛が含まれていた白粉が使用されており、中には鉛中毒で死んでしまったという人もいるのですからまさしく命がけだったと言えましょう。

では、そんな「命を賭して美しく見せる化粧」から問題です。

476年に西ローマ帝国が滅ぶと西ヨーロッパではカトリックが権威を持つようになり、「人間の見た目を変えてしまう化粧は神への冒涜だ」ということで一時的に化粧が禁じられる一幕がありました。しかしなんとしても肌を綺麗に見せたかった一部の女性は、「あること」をしてまで肌を青白く保とうとしたのです。後に中世ヨーロッパでは治療の目的で理髪外科医が多く行った、その「あること」とは何でしょう?

<ヒント>

肌が青白いということは……?

 

巷ではよく「これ本当にCERO:Aでいいのかよ!?」というようなツッコミが多くされるゲームがありますが、その代表格とも言えるのがコナミのゲーム『パワプロクンポケット』シリーズと言えましょう。お泊りイベントで体力は下がるのに弾道()が上がったり、鬱ゲーさながらの胸糞エンドを迎えたりとその「エロゲっぽさ」は枚挙にいとまがありません。

しかしこれに個人的に付け加えて言うのであれば、近年では(とはいってもここ15年くらい)本家である『実況パワフルプロ野球』シリーズにもその余波が押し寄せている気がします。ちなみに2007年には同人サークル「劇団近未来」により『実況ナマハメエロ野球』なるどう考えてもアウトなパロディアダルトゲームが頒布され、見事同年10月にコナミからお叱りを受け回収されるという「リリース×」な一幕があったのですがそれはさておくとして。

僕が一番『実況パワフルプロ野球』で「エロゲっぽさ」を感じると思うのがオープニング及び主題歌です。あまり知名度のない女性歌手を起用するところだったり、その歌声、さらにムービーにしてもとてもエロゲの主題歌っぽいなと思うのです。こればかりは聴いてみなければ分からないだろうから詳細は省きますが、ここで問題です。

数々のアダルトゲームの主題歌を担当し、その中の代表曲には『アイの庭』『アマオト』『二人色』などがある歌手で、後に「mao」という名義で『実況パワフルプロ野球2014』の主題歌『Link』を歌うという、「エロゲっぽさ」どころか「正真正銘のエロゲに関わっている歌手」でもあり、更にその前の2007年には『ドラえもん』の主題歌『夢をかなえてドラえもん』を歌っており、実際のところは別人物として扱われているものの、「エロゲ歌手としても現役バリバリながら国民的アニメの歌手にまで上り詰めた」として当時多少なりとも話題になっていたのは誰でしょう?

 

「魔術」と「手品」は英語では共に"magic"となりますが、その通り魔術と手品の起源は同一のものと言われています。概念としての登場は魔術が先と言われていますが、例えばそれは古代エジプトから演じられ、現在でも行われる「カップ&ボール」などでトリックを駆使するようになった結果、そのタネを知らない民衆から尊敬の意味を込めて「魔術師」と呼ばれるようになったわけであって、結局のところ手品師となんらやっていることは変わらないわけです。

それを証拠として中世ヨーロッパではマジシャンは「怪しい術を使うヤツ」として迫害の対象になりました。いわゆる魔女裁判ですね。これによりマジシャンは一時期息を潜めるようになります。

これが大衆のエンターテインメントとして認められるようになったのはカトリックの力が弱まった16世紀のことで、更に19世紀以降にもなってくると、「近代マジックの父」ことロベール・ウーダンを皮切りとしてより複雑なマジックが行われるようになりました。美女を真っ二つに切断するマジックを初めて行ったP・T・セルビットや、椅子に座った女性が消えるマジックを考案したボーティエ・ド・コルタ、そしてアメリカ人なら誰もが知る「脱出王」ハリー・フーディーニなどこの辺りを挙げていくとキリがないので、ここで問題です。

マジックの種類における最もベタなものとしては、自在にモノの存在を操る「出現/消失」の機構を含むものが挙げられます。これらはシンプルであることから時代を経るにつれより大がかりな仕掛けが求められるようになりました。では、1983年に放送されたアメリカの特番にて、世界で最も成功したマジシャンと言われるデビッド・カッパーフィールドが消して見せた、ある「巨大なもの」とは何でしょう?

<ヒント>

マジックの舞台もアメリカです。

 

かつて某インスタント麺のCMに使われたことから広まったとされる「中国4000年の歴史」とはよく言ったものですが、この「4000年」という言葉において最も大きなウエイトを占めるのは中華料理ではないかと思われます。現在の代表的な中華料理はほとんどが新しい上に漢族でない清王朝によってもたらされたというのはもしかしたら周知の事実かもしれませんが、歴史という点では確かに4000年あると言えるでしょう。

例えば夏王朝の伝説的な王「黄帝」はかまどを発明し、調理の方法を教えたと言われています。さらに周の頃には最古のメニューと呼ばれる「周八珍」というものが既に確立され、名物として紹介されていたという記録が残ります。やがて中世になるとヨーロッパからの食物が多く輸入されますが、清の時代になると先述の通り今に繋がる中華料理が多く生み出されます。とはいえ4代皇帝である康熙帝は非常に質素な生活を心がけ、1日2食しか食べなかったという逸話があります。これが大きく変わることとなるのは6代皇帝の乾隆帝の頃で、彼が60歳の誕生日を迎えた際に2800人もの人物を招待して料理をふるまったことが、いわゆる「満漢全席」の始まりと考えられています。

さて、中華料理を語る上で欠かせないのが「珍味」ではないでしょうか。有名なのはオランウータンやフカヒレ、ウミツバメの巣などが挙げられますが、さらに唐から宋の頃にはアリ、ラクダ、コウモリ、ゾウの鼻など多くの珍味が食される「グルメブーム」が起こるなど、「ゲテモノ」と言われることはありながらも多く食されてきました。

では、ここで問題です。【AのBという形で回答】 周の時代から食されており、あの孟子が『告子章』のなかで「魚料理も好きだが、『これ』も好きである。しかしどちらかしか選べないと言われたら『これ』を選ぶ」と述べた記録が残っている、現在でも貴重なある動物を用いた珍味は何でしょう?

<ヒント>

肉球があるのでコラーゲンが多く含まれています。

 

近年は若者の間でキャンプブームが巻き起こっているようです。それも集団ではなく1人で行う、いわゆるソロキャンプなるものが流行を見せています。この前僕が書店へ立ち寄ったときにも、初心者へソロキャンプを勧めるガイドブックが多く平積みになっていました。

「どうしてソロキャンプなのか?」という点については、専門家曰く先述したようなソロキャンプ用のガイドブックの増加などに代表される、敷居が低くなったことが物理的な要因だと言われています。さらに当然、日頃のしがらみから逃れるために自然の中で五感を研ぎ澄ましてリラックスする行為が有益であるから、ということも挙げられます。

加えて個人的に言うのであれば、若者文化としてのソロキャンプへの憧れという点であfろの漫画『ゆるキャン△』の影響は外せないと思います。作中の登場人物である各務原なでしこや志摩リンなどが行った富士山を間近にまみえるキャンピングはアニメを視聴した方には印象的でしょうし、同地のモデルとなった山梨県身延町は2022年版「訪れてみたい日本のアニメ聖地88」にも選出されています。思えばアニメ『おねがい☆ティーチャー』で「元祖アニメ聖地」として著名になった長野県大町市木崎湖もキャンプ場が多く営まれていますし、そういった意味では最も聖地らしい聖地と言えるのかもしれませんね。

さて、ここで問題。

キャンプにおいて欠かせないと言えるのがアウトドアグッズです。近年ではソロキャンプということもあってか非常にコンパクトに畳めてかつ一人用のものが売り上げを伸ばしているそうですが、兵庫県姫路市にある尾上製作所では、「ある昭和のアイテム」がキャンプ用品として2020年には前年の3倍、更に翌年には2020年の5倍と大きく売り上げを伸ばしていると言います。電気を使わないことからキャンプに留まらず家庭でも注目されているという、この時期には特に必要になってくるかもしれないそのアイテムとは何でしょう?

 

江戸時代の町人文化には、今にも繋がっていく娯楽が多く生み出されました。歌舞伎や花火なんかももちろんそうですが、今回取り上げたいのは「旅行」です。江戸時代も中期に入っていくと五街道を中心に多くの道や宿場町が整備され、多くの紀行文や小説が著されたこともあり旅行が一大ブームとなりました。

江戸時代の旅行はと言えば、お伊勢参りだとか、四国八十八か所廻りだとか、現在でも存在する「パワースポット巡り」が主流でした。しかし道中にある温泉や名物を堪能することもきちんとしていたそうで、この辺りは今と変わりないでしょう。特に伊勢神宮に近い桑名では焼きハマグリがよく食されていたと言われています。「その手は桑名の焼き蛤」なんていう洒落言葉もこうした経緯があって生まれたのでしょう。

こうして現在と近い旅行の形態にあった江戸時代の旅行事情ですが、もちろん違う点もあります。費用の高さだとか関所手形が必要だとか(地域ごとのビザと思えば今と変わりないかも?)いろいろあるのですが、最も異なる点はと言えばほとんどの人間が歩いて旅をしていたということではないでしょうか。馬や駕籠などの輸送手段もなくはないのですがこれは裕福な人間に限られていたようで、男性は一日30-40キロほどを弥次さん喜多さんよろしく「東海道中膝栗毛」をしたわけです。

しかし例外もあります。例えば、外様大名が攻めてくるのを防ぐために現在の静岡県にある大井川には橋が架けられていませんでした。よって大井川には「川人足(かわにんそく)」と呼ばれる専用の運び屋がおり、体のどの部分まで水かさが達しているかで渡し賃が決められていたようです。それでも「越すに越されぬ大井川」というだけあってどうしてもダメなときは周辺の宿に留まらなければなりません。こうした場合お金を落としてくれるので川人足はたいそう喜んだとか……。

……と、他にもいろいろ面白い話はあるのですがキリがないのでここで問題です。

江戸時代に旅をしていたのは何も大人だけではありません。親や主人に無断でお伊勢参りをする「抜け参り」が子供の間でも流行っていたと言われています。そんなことをしたら現代では当然怒られそうなものですが、「ある道具」さえ持参していれば抜け参りをしても怒られないどころか、食事や宿泊費もタダにしてもらえたり、お金も恵んでもらえたという記録が残っています。

さて、そのある道具とは何でしょう?

<ヒント>

お金を恵んでもらった際には「ある道具」にお金を入れていたと言われています。

 

16世紀の初めごろ、イングランドテューダー朝にはヘンリー8世という王様がいました。後述するような事情によりそれなりに世界史に響く出来事を起こしたので一定の知名度があると思われ、「アナモルフォーシス」の技法で著名なハンス・ホルバインが描いた肖像画でも知られています。余談ですがこの肖像画、やけに肩幅が広く描かれているんです。これは何も誇張して描いたというわけではなく、当時は体を大きく見せることが王の権威の象徴だということで、肩のあたりを膨らませるため詰め物をしていたからだという説が有力です。もっとも、乗馬をやめて以降は本当に太ってしまったという話もあるのですが。

さて、このヘンリー8世は若いころは文武両道として知られており、イングランド王国名うての名君と言われていたのですが、年を経るにつれ段々と奇行が目立つようになりました。反逆罪を濫用して古参家臣を処刑したり、350年以上前に死んだ先祖の敵の墓からわざわざ遺体を掘り出し、ガイコツに向けて死刑を宣告、火あぶりにしたという逸話もあります。

ですが最も知られているのは、当時カトリックでは禁じられていた「離婚」をしたかったがために、むざむざローマ・カトリック教会から離脱し、イングランド国教会を創設したエピソードではないでしょうか。結果として彼は生涯に渡り6度の結婚、5度の離婚を繰り返しました。ですからヘンリー8世の伴侶となった女性は6人。カトリック教会離脱のきっかけとなった第1の妻キャサリン、浮気という言いがかりをつけられ処刑までされてしまった第2の妻アン・ブーリンと第5の妻キャサリン・ハワード、唯一男児を授かるも出産後に病死した第3の妻ジェーン、最後の結婚であった第6の妻キャサリン・パー。そして残るは第4の妻なのですが、ここで問題です。

1539年頃、先程も触れた画家ハンス・ホルバインが描いた「第4の妻」の肖像画ヘンリー8世が一目惚れしました。しかし実際に彼女の顔を見たところ「想像していた顔より美しくない!」と激怒、結局僅か半年で離婚することになったといいます。

では、この逸話の通り(?)名前に「ブス」が含まれている、「第4の妻」とは誰でしょう?

<ヒントというか補足>

この時代のイングランド宗教改革を行ったことで有名なトマス・クロムウェルは、この「第4の妻」を紹介してしまったことをきっかけに処刑されてしまったと言われています。

 

【ゲームやアニメの話が大半を占めますが、最終的に問題はほとんど青と関係がなくなります。】

今、『ポケットモンスター』が熱いですね。去年の11月に『ダイヤモンド・パール』のリメイクである『ブリリアントダイヤモンド・シャイニングパール』が発売された際には、本元であるゲームフリークが制作するのではなく、あまり実績のない会社に外部委託されてしまい、前評判通りあまり芳しくない様相を呈していたように思えます(もちろんあくまで個人差なのですが)。

しかしゲームフリークが本腰を入れて先日1月28日に発売された『Pokémon LEGENDS アルセウス』は、シリーズ初のオープンワールドゲームという事情もありながら、ポケモンの野性的な生態に迫ったり、3Dマップでトレーナーであるプレイヤー自身も活発に活動できるなど、今までにないリアリティのある描写で、とてもいい意味での話題を呼んでいるように見受けられます。

そして、「新無印」と銘打たれているアニメ『ポケットモンスター』も好評放送中です。従来のシリーズのように一つの地方を回るのではなく、さまざまな地方を巡るのが今作のコンセプトであり、かつて登場したキャラクターも数多く登場することが特徴です。2022年2月25日には、ゲーム『ソード・シールド』に登場し人気を博したマリィがアニメに初登場するそうで、声優は小倉唯が務めるようですね。そういえば、このマリィはソーシャルゲームポケモンマスターズ』では田村ゆかりが声優を務めていたことでも話題となりました。

小倉唯田村ゆかり、この2人を並べたときに真っ先に思い出される他作品のアニメと言えば……多分、『変態王子と笑わない猫。』なのではないかと思います。メインヒロインの筒隠月子役を務めたのが小倉唯、その姉である筒隠つくし役を務めたのが田村ゆかりであり、何といっても同作のオープニングテーマ『Fantastic future』を田村が、エンディングテーマである『Baby Sweet Berry Love』を小倉が歌っているという点が印象的でしょう。

さて、ポケモンから始まって無理矢理話を横に逸らせてしまいましたが、ここで問題です。

変態王子と笑わない猫。』の作者であるさがら総が大の将棋好きであることから、同作のタイトルは彼のあだ名「振り穴王子」に由来しているという、2005年に早稲田大学入学と同時にプロデビューを飾ると、2018年には竜王戦羽生善治にフルセットの末勝利し、羽生が27年振りの無冠になる要因を作った棋士は誰でしょう?

 

SFとはいつの時代も定義が難しいものです。ここでいうSFとはサイエンス・フィクションもスペキュレイティブ・フィクションもサイ・ファイも全て包括したものを指しますが、いずれも境界が曖昧である以上無理に定義をする必要はないというのが現況でしょう。SFの系譜を受け継いでいるライトノベルが好例ですが、原義の括りからかけ離れている例も多く散見されますし、そもそも定義ができないものと捉える意見が多いようです。

しかし、いずれのSFにおいても世界観の構築は重要となります。ハイファンタジーでもローファンタジーでも、どのような舞台、環境、存在をベースにするかというのは大きな内容のウエイトを占めますが、中には既存のSF的世界観に囚われない特異なものも多くあります。中でも面白いかどうかはさておいて僕が衝撃を受けたのが、かつて紹介したかもしれない伊藤計劃の『セカイ、蛮族、ぼく』という短編。冒頭の一文を載せておきます。

「『遅刻遅刻遅刻ぅ~』と甲高い声で叫ぶその口で同時に食パンをくわえた器用な女の子が、勢い良く曲り角から飛び出してきてぼくに激しくぶつかって転倒したので犯した。」

読んでの通り、ベタベタなラブコメの冒頭かと思いきや最後の「犯した」で全てを無に帰しています。この後は「それはぼくが蛮族だからだ。」と続き、そして「どうして自分は"蛮族"なのだろう?」と自身に問うという、哲学的な内容となっています。この倒錯こそがSFなのかどうかは解りませんが、かような前衛的な世界観のものは特に短編に多い印象があります。

では、そんな「特殊な性質を持つ人間が主人公のSF」から問題。

【答えは漢字3文字】

SFにおけるニュー・ウェイブの書き手の一人にJ・G・バラードという作家がいます。彼はディストピアかつシュルレアリスム的な世界観の作風を得意としており、代表作である『クラッシュ』は、「あるもの」が"クラッシュ"されることに性的興奮を覚えるという人間が主人公となっているのですが、内容のあまりもの異質っぷりから出版を咎められたほどでした。では、その「あるもの」とは何のことでしょう?

<ヒント?>

バラード本人は、「『クラッシュ』を世界最初のテクノロジーに基づくポルノグラフィーだと考えたい」という意向でこの小説を発表したそうです。「テクノロジー」というワードがヒントになるかもしれません。

 

さて、冬季北京五輪が間近となってきました。しかし残念ながら僕はウィンタースポーツの造詣がさほどないので、2022年にもう一つあるスポーツフェスティバルについて触れようと思います。

そうです、11月21日から12月18日にかけてカタールで開催されるワールドカップですね。コロナ禍の中であることも予想され、中東という色々な意味で不安定な立地の中の開催となりますが、無事に遂行できることを祈っています。

さて、他の競技もそうである通り、サッカーは時代と共に戦法が移り変わっており、ワールドカップではそのさまを色濃く見ることができます。そのような中で、現在昔に比べて最も重要な位置づけをされるようになったポジションと言えばゴールキーパーではないでしょうか? GKというとあまりサッカーに造詣がない方からはシュートを止めることが役回りの大部分を占めると思われがちですが、現在ではペナルティエリアの外に出てボールをクリアしたり、攻撃の軸となる「ビルドアップ」をより効率よく行うために足元の技術が必要ともされており、

こうした性質を持つGKは時に「スイーパー=キーパー」と呼ばれています。スイーパーとは主にセンターバックカバーリングを行うポジションなのですが、実質的な運動量は少ないためこうしてGKが兼用するケースが増えたという訳ですね。

実はこのスイーパー=キーパーの役回りをしたGKは昔からいました。アルゼンチン史上最高のGKと名高いアマデオ・カリーソ、「トータル・フットボール」時代のオランダのGKヤン・ヨングブルート、当時史上最強と言われたハンガリーの「マジック・マジャール」の守護神グロシチ・ジュラなどが代表的でしょうか。しかし近代的な戦法という点においてこのスイーパー=キーパーの役割を明確化したのは、現在でもバイエルン・ミュンヘンゴールマウスを守るマヌエル・ノイアーと言っていいでしょう。2014年ブラジルワールドカップにてドイツは優勝を果たしましたが、その最大の立役者であり、同大会のMVPを受賞したのがノイアーだったのです。しばしばドイツ人GKは「ゲルマン魂」と呼ばれる強いリーダーシップを持つ存在としてチームのシンボルに上げられますが、彼もまたその系譜だったと言えましょう。

大変長くなってしまいましたが、申し訳ないことにここまでが前置きです。先程ノイアーのことを「ゲルマン魂を持ったチームのシンボル」と述べましたが、この括りにいるドイツ人GKとしては忘れてはならない存在がいます。

それはノイアーと同じくバイエルンゴールマウスに君臨し続けたオリバー・カーンです。最後尾から檄を飛ばしてチームを鼓舞するその姿は、チームメイトのメーメット・ショルからも「この世で一番怖いものは戦争とカーン」と言われるなど敵味方問わず恐れられたのですが、その実力は疑う余地はなく、現在ドイツで最も多くのタイトルを獲得した選手だとされており、引退後もなおドイツ社会に発言権を持つほどのカリスマ性を発揮しています。 ちなみに先程触れたようにノイアーは2014年ブラジルワールドカップでMVPを受賞しているのですが、カーンは準優勝ながら2002年日韓ワールドカップでMVPを受賞しており、これはゴールキーパーとしてはワールドカップ史上初のMVPとなっています。

では、ここで問題。

名実ともに当時史上最高格のGKであったカーンは、2002-2003年にかけてブンデスリーガの最多無失点記録を継続中でした。しかし迎えた2003年02月10日のハンブルガーSV戦、ついに「ある選手」にゴールを決められ記録が途切れてしまいます。実はその「ある選手」とは日本人なのですが、誰でしょう?

<ヒントと余談>

この選手はその後再びJリーグに戻り、2011-12年には清水エスパルスでプレーをしました。微妙に時期はずれているのですが、この頃の清水は彼に加えて藤本淳吾エディ・ボスナー岡崎慎司小野伸二など、見ていて面白い選手がとても多かったですね。

 

①綱引き

②英語

瀉血

Duca(デュッカ)

自由の女神像

⑥熊の掌

⑦湯たんぽ(トタン製のもの)

⑧ひしゃく

⑨アン・オブ・クレーブス(Anne of Cleves)

広瀬章人(ひろせ・あきひと)

⑪自動車

高原直泰(たかはら・なおひろ)

インターネットで物議を醸す"ツイフェミ"はフェミニストと呼ぶべきではない

 まず最初に言わなければらならないことがあるのだけれど、僕はあまりこういう記事を書きたくなかった。根も葉も実りもない堂々巡りの諍いを繰り返す連中の渦中にむざむざ首を突っ込もうとするほど馬鹿ではなかったはずだから。けれどどうしても僕は奥歯に物が挟まったような違和感を覚えて書かずにはいられなくなった。だから文章を少なくして端的に書くし、最初に言いたいことを明示する。

 近年「女性蔑視」を盾にして表現規制をのたまい、インターネットを悪い意味で騒がせている連中は「フェミニスト」ではなく「ミサンドリスト」と呼ぶべきであると。

 何もこれはそのミサンドリストだけに向けた言葉ではない。日夜表現を守ろうとやっかんでいるネットギークにも戒めを込めて今一度言葉の意味を見直すべきだというのが執筆契機であり、正しく女性の権利を守ろうとする人間、即ち本来の意味でのフェミニストたちまで謗ってはならない。仮想敵はきちんと見定めることだ。

 

 定義づけもないまま現状の「ツイフェミ」などと呼ばれている"自称"フェミニスト(以下全てこの連中をツイフェミとかミサンドリストと呼ぶ)をミサンドリストと呼んだところで説得力も生まれないだろうから、フェミニストミサンドリストの正しい意味について説明しよう。

 

 まずフェミニストについてである。一般的に日本語では「女性解放思想」などと訳されるが、これは字面の通り従来の女性観点の価値観からの脱却を示すものであり、封建主義の瓦解と共に誕生したものだ。有名なのがフランス革命である。ラファイエットにより起草された『フランス人権宣言』には一般市民が持つべき様々な権利が書かれていたのだが、とりわけ参政権は男性のみとされていた。もとより革命期からテロワーニュ・ド・メリクールのような強い女性のシンボルたるような存在は現れていたが、この男性のみの参政権が明言されたことにより一層女性の権利は叫ばれることとなった。結果オランプ・ド・グージュやメアリー・ウルストンクラフトらの手によりフェミニズムが産声を上げ、当時にフェミニストなる概念が生まれたのである。

 そしてこれは日本でも例外ではない。周知の通り鎖国をしていたため女性の権利が叫ばれるようになったのは明治以降になるのだけれど、平塚らいてうや市川房江といった義務教育でも習うような偉人女性が婦人解放運動を行い、努力の末女性の参政権などが認められて現在に至る訳だ。

 つまるところ現状ギークたちが蔑称の如く呼んでいる「フェミニスト」はこれら女性の権利を切り開いた偉人を「ツイフェミ」と同じレベルに落として貶すこととも同義であり、侮辱していると受け取られてもおかしくない。言葉は時代とともに移り変わるものであり、それもまた文化であると僕は熟知しているが、流石にこれは看過できない案件である。

 

 さて、一方の僕がツイフェミと同一視したミサンドリストについてである。これは日本語に訳すと「男性嫌悪」であり、最早ただの感情論で行動していると言っても差支えない。そして感情というものは時に恐ろしいものを引き起こしてしまうこともある。かつてアメリカにヴァレリーソラナスというミサンドリストがいた。彼女はSCUM Manifesto("scum"とは"Society for Cutting Up Men"、即ち全ての男性を抹殺するという意味。単語のscum(ごくつぶし)ともかかっている)という苛烈な公約を掲げ、ついには著名画家アンディー・ウォーホルを銃撃して重傷を負わせるという犯罪まで犯してしまう。当時世間を席巻していたウォーホルを狙撃したことは当時世間を大いに騒がせ、後に映画化に至るまでとなった。

 ――とまあ、これはだいぶ極端な例になるけれど、要はミサンドリストというのははっきり言ってしまえば「自らが女性に対しての性差別を助長すると思えばもれなく排除に動く」といったろくでもない連中である。アニメ・ゲームをやたらと槍玉に上げたがるツイフェミを僕がミサンドリストと同一視しているのはこういった所以である。そのような文化が直接女性のみに危害を及ぼす例があったならまだしも、勝手にテリトリーに入っていって発砲されているのだから関係者にとってはたまったものではないわけであり、傍から見ていればその主張は思うようにならず駄々をこねている幼児のような滑稽なものにしか見えず、結局感情論で排斥したいだけではないかと訝しんでいる……というよりそう思ったからこの記事を書いている。

 

 もちろん、Twitterをやっているフェミニスト(≠ツイフェミ)の中には先人たちの意志を引き継ごうとしているきちんとした女性の権利を主張する人物もいる。だから今一度告げたい。「"ツイフェミ"は正しいフェミニストの活動を邪魔するな」「ネットギークは浅慮で正しいフェミニストまで巻き込むな」とね。

ロリィタ・ファッションについて

某所で行ったクイズ企画の前置きをリライトしたもの。ロリィタ・ファッションの歴史や先入観について主に述べている。

 

①ゴシック・ロリィタ=ロリィタ・ファッションではない         

「ゴシック・ロリィタ」とはあくまで括りの一つであり、ロリィタ・ファッションそのものを指す言葉ではない。そもそも「ゴシック」という言葉自体が多くのサブカルテイストを内包するものである以上そのどれもが曖昧な基準ではあるのだが、ロリィタ・ファッションの種類には実に様々なものが存在する。愛好家たちは時代が変遷するに連れかような幅広いデザインのロリィタ・ファッションをある程度分別し、一定の枠内に設けているのである。インターネットにおいて多くのジャンルが口伝され広まった結果曖昧になったという点では、長らく現代文学を悩まる「一般小説とライトノベルの違いは何か?」という問題に似ているのかもしれない。だが基本的にはゴスロリ甘ロリ・クラロリの3種類を覚えておけば、知識としてそう困ることもないだろう。

 

ゴスロリ...言わずと知れたロリィタ・ファッションの王道。だがそれがどのようなものであるか、というのは時代によって変遷している。それらの点について詳しくは後述するが、基本的には黒を基調としたものであると言って相違ない。

甘ロリ...ピンク系の色を基調とした甘美な雰囲気のロリィタ・ファッション。なんとなく"田村ゆかり"みたいなものだと思ってもらえばいいのだが、厳密に言えばお姫様になりきろうとして着るものは「姫ロリ」と呼ばれることが多い。

クラロリ...クラシカル・ロリィタ。他のロリィタファッションとは違いベージュなど落ち着いた色を多く使い、またパニエをあまり多く使わない。そうした雰囲気から普段着としてもある程度役割を持てると思う。僕が最も好んでいるのはこれ。

                

ロリィタ・ファッションとヴィジュアル系バンドの深い結びつき          

こちらも大半がゴスロリの話になるが、1990年代に流行を見せたV系バンドとロリィタ・ファッションは切っても切れない関係にある。バンギャル...という言葉ももう死語に近いかもしれないが、そうしたV系の追っかけの中でゴシック・ロリィタは生まれ、様々な形に派生したとされている。そのきっかけを作ったのは説明不要の伝説的バンド・X JAPANであり、彼らの熱心なファンである。ライブがある際にファンはX JAPANのメンバーと同じ派手な格好で会場へ赴くという、仲間内で衣装を着ていく習慣が存在した。これがV系ブームにより一大ムーヴメントとなり、現状のゴスロリ、ひいてはロリィタ・ファッションの発展へと繋がったとされる。またこの場合多くが黒ずくめの衣装であり、元来「ゴスロリ」とはそうした衣装をした人々を指す言葉であった。

 

③"コスプレ"との差別化

ロリィタ・ファッションと言えば最早メイド衣装と並んでコスプレの王道と考えている人も多いように思う。だが愛好家の間ではコスプレと同一視するのはご法度とされている。これに関しては着る側の"精神面"における大変面倒な問題が存在し、なかなかややこしい事情を呈しているのだが、分かりやすく違いを言えば「コスプレはなりきり」であるのに対し、「ロリィタ・ファッションはあくまで自己を立たせるためのお洒落」という認識であると考えてよいだろう。またかつて鳩山一郎の邸宅・鳩山会館が「バえる」スポットとして紹介された際にとあるコスプレイヤーの迷惑行為によって立ち入り禁止になったという事例があり、このことに関してコスプレとロリィタ・ファッションを同一化した報道がされたことから、より差別化の動きが加速していったともされている。だがオタクカルチャーが表に出だした現代ではなおのことそういった認識が困難と化しており、特に外国人にはコスプレとの違いは愚か、①で解説したような「ゴシック・ロリィタ=ロリィタ・ファッション」という認識で定着している事例が多く見られる。

 

僕なんかに最近の邦楽が刺さらなくて良かった

ニコニコブロマガからここへ移動してきて初めの執筆となる。そして前回の記事から実に1年以上が経過していた。何せパルパレオスのレンダーバッフェから見たサラマンダーよりスロウ・ペースで書くのだから初めにこのブログを再開設するにあたって書いた通り1年に一回執筆できればいい方で、ただただ思い付きを流水のように書いているのである。そしてこの流水は普通に流れている分にはまだましなのだけれど時に何の前触れもなく凍結したり、或いは物理法則を無視して逆流するものだから氷のように固まった思考でいられない。それでも辛うじて比較的まともに見える水のような部分を集めて採取しどうにか、ない語彙力と行動力でこうして言語化しているのがこのブログの記事なのである。だからこの水が硬水なのか軟水なのか、下手したら毒を含んでいるのかすら僕には解らないので、どうにか読者の皆様で味見をして頂きたい。

そういう訳もあって、僕は来る8月8日に忌々しき二十歳を迎えるにあたって書く最後の記事となるであろう。

前置きが長くなってしまったが今回のタイトルは「僕なんかに最近の邦楽が刺さらなくて良かった」というものである。字面だけ見るとなんともネガティヴな印象を受けるが、そういう訳ではない。多くの人生をネットに費やしてきた自称・観測者が今の邦楽について非難するわけでも褒めそやすわけでもなく、エゴイスティックを以てまくしたてるだけだ。

ただ一点重要なことを述べさせてもらうと、僕は最近の邦楽に大して詳しくない。後述する現在の邦楽における主要アーティストの名前を初めてタイピングしたと言っていいし、最早邦楽の一部分として大いに取り上げられるアニソンを昔からずっと聴いてきたが、そのアニソンですら最近のものはあまり詳しくないという有様だ。だから説得力は皆無と言っていい。寧ろ、この説得力がない状態で読んでもらう方が気が楽というものだ。目的もなく他者に影響を与えるのは疲れるからね。

さて、最近の邦楽アーティストと言ったら誰を思い浮かべるだろうか。あいみょん、King Knu、米津玄師、YOASOBI、Official髭男dismとか? 思い浮かべるアーティストは誰だっていいけれど、最近はAKBやジャニーズの衰退もあって10年代前半の代表格であるアイドル的売り方も減って新風が吹きこんだことにより、最近の邦楽は再興していると言われている印象を受ける。
実際僕もそう思う。アイドル一色だった街角やテレビで流れる音楽は最早多角的なアーティストに渡り、音楽の坩堝とも言えるほど豊かになったと感じる。
しかし何故だかこの僕には最近の邦楽が刺さらないし聴こうともしない。まともな生活を送っていない僕にスチューデント・アパシーなんてものはないし、それを差っ引いてもとてつもなく無気力で無力な人間であるにも拘らず、一昔前の曲はずっと聴いているし生きる糧にしているので多分関係ないのだと思う。かといってもちろん別に嫌いなわけではない。ちょっとだけ00年代の雰囲気が戻ってきた感じがするし、好きな曲がある訳ではないのだけれど寧ろ好感はとても持てる。

じゃあ、どうして僕は最近の邦楽が「刺さらない」(「嫌い」ではないことが重要だ)のか、僕なりに考えてみた。そうして出た結論がこうである。

 

カノン進行ではないから。

 

これが結論である。

もし普通にこの記事を読んでくれていた有り難いユーザーがいるのなら少しあらぬ方向から槍を入れられ、「カノン進行とは何だ?」と疑問を呈したたかもしれない。

或いはこうだ。更にこの記事を読んでくれていた有り難いユーザーの中に少しでも音楽に詳しい人がいるのならあいみょんの『マリーゴールド』やOfficial髭男dismの『Pretender』はカノン進行ではないのか、と言うかもしれない。

後者の疑問については今回のブログを書くにあたって一つのファクターともなった要素だから後述する。

 

まずは取り敢えずカノン進行というものに軽く触れる。調べればすぐに出てくるものだから必要ないくらいだけれど、体裁的に一応ね。

カノン進行というのは、まだ和音すら黎明期であるバロック期にヨハン・パッヘルベルが発明した「C→G→Am→Em→F→C→F→G」のコード進行のことだ。心地よく響くこの進行は各地の音楽文化に浸透し邦楽でも半世紀にわたってずっと使われ続けているわけだけれど、その一方でとある弊害も生んだ。

カノン進行はあまりにも使いやすすぎるのである。

「魔法のコード」と呼ばれるほどの利便性に起因して巷では一発屋のアーティストを多く生むことになったとされていて、これはおおむね正しい(しかし僕に言わせれば厳密には少し違う。コードはいくらでも改変しようがあるからだ。ただ本題とは逸れるのでここでは述べない)。

誰のどの曲かはそれこそ調べればすぐに出てくる話なので割愛するが、特に90-00年代の一発屋アーティストは多くがカノン進行を使っていた。しかし過去に一発屋がカノン進行を多く使っていたことに対し、先に現代邦楽の代表的カノン進行として述べた『マリーゴールド』や『Pretender』は一発屋によるものでもないし、一時期の邦楽と比べると圧倒的に減ったカノン進行の数少ない生き残りと言っていいのである。だからあまりにも上位存在過ぎて、人々に膾炙され過ぎて僕は触手がそこへ伸びなかった――。これが先程の想定される2つ目の疑問に対する僕の答えだ。

そして「魔法のコード」に頼らなかった今のアーティストたちを讃え、今一度邦楽文化を見直す必要があるだろう。


さて、上述のプロセスにより僕の中で「最近の邦楽が刺さらない」理由は腑に落ちたわけだが、ここにもう一つの疑問が残る。

「何故カノン進行の楽曲は減ったか」ということだ。
これに対しては僕は以前から明確な答えを持っていた。それを紐解く鍵は、一昔前にアンダーグラウンドで誕生した音楽文化である。

 

VOCALOID

 

そう、ボーカロイドだ。クリプトンから発売された2004年のMEIKOを嚆矢とし、2007年に初音ミクが発売されたことをきっかけにニコニコ動画で爆発的にヒットした。そして次元の壁をも乗り越え地上に進出したボカロは今や大衆の知名度もさることながら、米津玄師やYOASOBIやヨルシカなどと言ったアーティストを生み、現代の邦楽において大きなウエイトを占めているのは最早言うまでもない。

さてここで、少しでも知っているユーザーにはいくらか、有名と言えるボーカロイドのヒット曲を思い浮かべてもらいたい。願わくば2010年以降の曲で。

 

その中にカノン進行の曲はあっただろうか?・・・・・・・・・・・・・・・

君にカノン進行かどうかの判断がつかなくても構わない。何故ならほとんど2010年以降にはないからである。多少古めのボカロを知っていれば『恋スルVOC@LOID』『コンビニ』『SING&SMILE』『愛言葉』などのカノン進行のボカロ楽曲は出てくるかもしれないけれど、これらは全て2010年以前の楽曲だ。それ以外には『千本桜』『マトリョシカ』『ローリンガール』などなど最早挙げるまでもないが、これらは全て王道進行・小室進行ないしそれに属するものである。

詰まる所小室・王道進行が多い(=カノン進行が少ない)理由はほぼここにあると言っていい。ボカロPが邦楽の世界に現れたのとほぼ同時期にそれを見ていた視聴者も聴き手としてそちら側に現れ、よりキャッチーなメロディを浴びせる必要があったのだろう。その解のうちの一つがこうした試みだったわけである。そしてその視聴者のうちのごく一部はアーティストともなった。

 

ここで少しだけだけれど更に遡ってみる。ボカロPがどうして小室・王道進行を使うようになったか、だ。

僕は正直なところ王道進行が増えた理由はさっぱり見当がつかないね。ただ一つだけ言えることは、王道進行が聴く人を飽きさせにくい循環進行だということである。明るさと暗さ両方を併せ持つ王道進行は多様な世界を見せてくれる。そうした「飽きの来ない」進行に若者は惹かれたのではないかと推測している。しかしながらコード進行一つでそう心変わりするものでもないし、仮にそんなことをする人がいたら音楽に詳しい変人である。だからこの持論には自信がない。

 

それなりに量産の根拠があるのがもう一つの小室進行の方。勿論あくまで僕の推測でしかないので真に受ける必要はない。

ヒントはそのものである「小室進行」の「小室」である。つまり小室哲哉だ。言うまでもなく彼は90年代の邦楽を席巻し歴史に名を残した大プロデューサーである。僕自身は全盛期の小室時代が過ぎた後のトランス音楽に着目していて、後にI'veなどにも繋がったことを考えると語ることは多いのだけれど、ここではその話の幕はない。偉大なのは彼が生み出したコード進行である。

 

小室進行。

 

Am-F-G-Cのたった4つの基本軸からなるコード進行ながら、彼はこれを使って邦楽を支配したのである。

そして先に挙げた『千本桜』の黒うさP、『マトリョシカ』の米津玄師(ハチ)、『ローリンガール』のwowakaなどは大体80年代後半から90年代前半生まれである。ちょっと無理があるかもしれないけれど、彼らは小室が全盛期の時代に触れてはいないだろうか。10歳頃に聴いている楽曲であれば割と肌身にしみつくことはあるし、僕なんてその頃の楽曲をいつもずっと聴いている。或いはその後の宇多田ヒカルの登場も大きかったのかもしれないけれど、こうした世代と被っていることこそが小室進行がボーカロイド及び今の邦楽で増えたことに脈々と繋がっているのではないかと考えてみた。

小室死しても小室進行は死せず。

後の世にそう呟く日が来るのかもしれない。

 

僕が言いたいことは以上である。

相当久しぶりに根を詰めてつらつら書き連ねてきたわけだけれど、何度も言っている通りここに書いてある意見が正しいとは全く限らない。重篤パラノイア患者が書いた落書きと思ってもらっても結構だし、或いは幽王が褒姒のために挙げた狼煙ぐらいには事実の信憑性がないと思ってもらっても構わない。

ただ一つ言いたいのは、馬鹿にされる音楽なんてものは決してあってはならないということである。

涼宮ハルヒと長門有希の「人気」について非リアルタイムの未成年が語ってみる

※2020年4月17日に書いて、燃えたもの

 

まず最初に言っておくが、タイトルにある通りこれを書いているのは当時の1期『涼宮ハルヒの憂鬱』をリアルタイムで視聴していない齢18の人間だ。一応後々アニメ版の全てや文庫本もすべて視聴・読破しているが、オタク文化に触れたのは2008年ころからとなる(それでも早い方だとは思うが)。だから、当時の情報は全てかつて電子網に流れた第三者から得た記憶であり、最もらしいことを言っていても実は中身はないものかもしれない。それを心して頂きたい。

僕がこんなタイトルでブログを書こうと思ったことの発端は、Twitterで物議を醸したあるツイートに由来する。それがこちらだ。


何故物議を醸したかは恐らく当時を知る人ならお分かりだろう。
最近のオタクは長門みたいな便利なだけの女に逃げるようになってきた」というような扇情的・老害的な発言だけならまだしも、まるで「当時の長門は人気がなかった」と受け取られかねない含蓄があるからだ。曲解的ではあるかもしれないが、まずこの点に関しては明らかに嘘であると僕は思う。00年代半ばから定着し始めた「○○は俺の嫁」というオタク・スラング長門有希に象徴されるように、明らかに人気がないわけではなく、寧ろ非常にあったはずだ。加えて2010年公開の映画『涼宮ハルヒの消失』がそれを確固不動たらしめた。所謂「消失時空」の「感情がある長門有希」に衝撃を受けた人は多いだろう。

そう言った訳で、まず「当時の長門は人気がなかった」ということは有り得ない。一応名誉保持のために氏のカバーリングも載せておくが。


現在の萌えのトレンドについての話も散見されるが、それについては以前に書いた「至高の萌え属性ツンデレ」は何故見かけなくなってしまったのか?」(https://ch.nicovideo.jp/jury/blomaga/ar1799053)で触れているのでここでは言わない。あまり濃い内容を書いたつもりもないが、この記事は何故か1万PVを突破していた。痛み入る。

とまあ、これは前座である。
問題は先程のツイートに「当時涼宮ハルヒは人気がなかった」という反論が相次いだことである。
これに関してまず定義づけをしておきたいのが、「人気」の如何である。この反論の場合の人気のニュアンスというのは、支持を集めたというよりは、萌えとして成立していたかどうかということではないかと思う。この人気のことを便宜的に「オタク人気」と名付けるが、まずその辺を履き違えているとどうしようもないのではないか。
その場合、オタク人気ではない涼宮ハルヒの人気がなかったとはまず考えられないと思う。これだけ深夜アニメを膾炙しオタク界隈を席巻した『涼宮ハルヒの憂鬱』の顔であるメインヒロインがキャラとしての人気がなかったわけがないだろう。実際、当時の雑誌人気投票でもトップクラスに位置していたし、キャラソンだって聴かれていたし、件のスキャンダルまでは中の人・平野綾の人気だってうなぎ上りになっていた。いわばストーリーの中枢神経であるハルヒなしでいられるわけがないのだから、その時点で通常の意味での人気はあるに決まっているのである。涼宮ハルヒがかような性格でなければ物語は成立しないのだから。

だから、結局のところ「オタク人気」が焦点ではないのだろうか。その場合、確かに涼宮ハルヒが他キャラに比べてなかったのかもしれない。
というのも、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品はオタクへの影響が巨大すぎて、涼宮ハルヒ長門有希朝比奈みくるのヒロインのみならず、メインキャラではない朝倉涼子鶴屋さんなどもアニメを通じて絶大な人気を誇ったわけだし、それはアニメでは未出の佐々木だったり、古泉・キョンの男子にまで至る。それぞれ突出した個性があって、更にその上に涼宮ハルヒを中心とした舞台装置が出来上がっていくから、「好きになれるキャラ」が多すぎるのだ。こういった観点から涼宮ハルヒが舞台の中心としての人気のみであって、当時の萌えを主体に置いたオタク人気がなかったのではないかと思うのである。

そして、この「オタク人気」において欠かせない『涼宮ハルヒの憂鬱』のキャラといえば、やはり長門有希だろう。その証拠は先述した通り、ネットスラングにも表れているし、特に『消失』公開後から顕著になったと思う。
彼女の人気の理由の一つとして、「セカイ系」に登場する「綾波系」のヒロインということが挙げられると思う。「セカイ系」という言葉は2002年にぷるにえ氏が個人ブログで運営していたものが初出なのもあって結局明確な基準は曖昧なのだが、『涼宮ハルヒの憂鬱』がそれに当たることについては異論はないだろう。同様に長門有希が「綾波系」というのも、そうそう異論はないものと思われる。「短髪」「口数が少ない無表情」という同一点はよく引き合いに出されることは周知の通り。
セカイ系」「綾波系」という2つの特徴は、『新世紀エヴァンゲリオン』の影響が強い。セカイ系は当初エヴァを基準にして設けられていたし、綾波系についてはネーミングの通りであるが、正直先に挙げた「短髪」「口数が少ない無表情」以外は原型から乖離していっているような気もする。が、それについて話すとまた長くなりそうなので省略。

こうしたオタクに受けやすい2つの特徴に加え、長門有希には「主人公を守る圧倒的な強さ」がある。半ばデウスエクスマキナと言っても過言ではないほどにだ。彼女は終始一貫してキョンを守るが、こうした「長門有希に守られたい」という感情を昇華(或いは逆に凝華なのかもしれないが)したものが「萌え」となり、オタク人気が拡大した。
そして極めつけが『消失』である。今までその何でもありの強さでキョンや周囲を守り続け、ハルヒの観測をしてきた長門有希は、その実「普通の女の子」になることを望んでいた。そして「消失時空」で見せた表情のある長門。このオキテ破りのシナリオが、更にオタクの心をギャップ萌えとして揺さぶり、オタク人気の地位を盤石にしたのではないだろうか?


さて、かように涼宮ハルヒ長門有希について小規模ながら書いたわけだが、最後に作品愛について語りたい。僕は先述した「セカイ系」のようなボーイ・ミーツ・ガールのジュブナイルノベルが好きなのだが、なるべく中身は明るくあってほしいと思っている(勿論『イリヤの空、UFOの夏』のようなポストアポカリプスを眼前に構えるようなものも好きだが)。そのような点において、明るい涼宮ハルヒというメインヒロインを軸に、周囲が引っ張られていくという展開はまさしくジャスト・フィットと言っていい。だからこそ、余すことなくこの作品を好きでありたいのだ。そういうこともあって、今回のような内容を書いたのである。
正直御覧のように一貫性がなく、まとめきれてもいないし、自分ではまだ語り切れてもいないので、意見や反論を歓迎する。宜しく。

ライトノベルの「長いタイトル」について考えてみる 他

※2019年9月18日に書いたもの

 

近年、ライトノベルと言えば何でも長いタイトルが主流だ。
例えば今季アニメ化されて放送されている作品では、『うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。』、『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』、『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(Ⅱ)、『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』の4つあるらしい。
正直なところ、まず僕はあまり長いタイトルが好きではない。正確に言えば''捻りのない''長いタイトルにあまり魅力を感じないのである。「これではあらすじを語っているのでは?」という気がしてくるものも枚挙に暇がない。
例えば僕は同じ長いタイトルでも、『たったひとつの冴えたやり方』とか、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』とか(そんなに長くないか?)、少し哲学的に考えさせられるようなタイトルが好みだ。尤も、僕が信仰して止まない『イリヤの空、UFOの夏』、『涼宮ハルヒの憂鬱』のように一線を画す嘗てのラノベでも終始一貫してシンプルなタイトルのものが多いのだが・・・。(特にハルヒなんかは、作者の谷川流氏が吉野朔美氏の『栗林かなえの犯罪』を書店で見てそのまま利用したとかいう話を聞いた)
しかし抑々そういった枠組みの話ではない気がしたのである。なので、前回の記事「至高の萌え属性「ツンデレ」は何故見かけなくなってしまったのか?」があわや1万PVと言うところまで来たことで調子に乗り、またしても考察をした次第である。
なお、今回上げるライトノベルは、知名度などを考慮し、原則としてアニメ化したもののみを考察対象としている。注意されたし。

1.少し前までは「4文字タイトル」が主流だった
思えば、ここまで極端に長いタイトルがライトノベルで使われ始めたのはごく最近である。抑々2000~10年くらいまでは、4文字タイトルのような短いものがアニメを中心にしてそこそこ長い間流行った気がする。この辺りは『ラブひな』や、京アニの『らき☆すた』『けいおん!』あたりの影響が大きいのかもしれない。尤もラノベだと『らき☆すた』以前にも多くあって、『ムシウタ』『まぶらほ』『いぬかみっ!』などなど・・・
あさのハジメ氏の『まよチキ!』なんかは、本来「迷える執事とチキンな俺と」という、「まよチキ」の正式名称がサブタイに入っていたらしいが、刊行の際にカットされている。4文字タイトルが流行っていた証左だろう。
しかし今はまるで真逆である。例えば、天野ハザマ氏の『最弱ランク認定された俺、実は史上最強の神の生まれ変わりでした~お姉ちゃん属性な美少女との異世界勝ち組冒険ライフ~』というもう何が何だかわからないタイトルは、元は『異空のレオスクール』というシンプルなタイトルであったらしい。しかし、恐らく編集との話し合いによって改題され、刊行されたそうだ。このことはTwitterでもそこそこ話題になった。ある意味、現況のライトノベルについての闇のようなものであり、当該のリプ欄は非難と憐憫のツイートが多く見受けられたのであった。一般小説と違ってライトノベルは、いわば漫画のように編集者というブレーントラストが口出ししていくという背景もあるのだろうが・・・。まあ、今は長いタイトルで売れるのだから、編集者の行いは間違っていないだろう。僕にとっては残念ながら、であるが。

2.何故ライトノベルに「長いタイトル」は増えたのか?
さてここが本題。何故「長いタイトル」は増えたのか?
まずタイトルが長くなり始めたきっかけとして、伏見つかさの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』が大きいと思う。上述したような「4文字タイトル」が流行りの中、「長いタイトル」として、アニメ化の際当時かなりその点に注目を集めていたような気がする。(当時僕は小3だけれど、この時点で3年ほどパソコンを扱っていたので何となく覚えている)
そして「おれいも」は爆発的なヒットを見せた。そこから2012年には『この中に1人、妹がいる!』『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』など妹ものも目立つ。そして13年はもっと「長いタイトル」が顕著になり『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』などなど、次第に長いタイトルが増えてきたのである。

しかしこれらはまだ序の口であった。10年代も半ばの頃、「なろう小説」なる概念の誕生である。小説家になろう自体は2004年からあるものの、2015年まででそこからアニメ化されたのは『ログ・ホライズン』のみである。そこから2016年から爆発的にアニメ化がなされたのだから、「なろう小説」と言う概念が、オタクに膾炙するという意味では僅かここ3年ほどで誕生したというのは間違いないのではないだろうか。
そうした「なろう小説」ブームを根底とすると、「長いタイトル」の理由が自ずと見えてきた。



此方の画像を見て頂きたい。これは、「小説家になろう」のトップページである。案の定、「なろう系」に象徴されるような長いタイトルが並んでいる。(しかも、4/10は全タイトルが見えていない)
お気づきだろうか。そう、トップページには小説の内容がタイトルしか見えていないのである。そうなると、なるべくこのトップページで情報を伝えたい。皆そう思うはずだ。その結果として、話の内容を伝えるために、粗筋じみた、矢鱈長いタイトルになってしまったのではないだろうか?
例えば上記で述べたもので、「まよチキ!」では何がどういう内容なのかさっぱりわからないが、「迷える執事とチキンな俺と」だったら、「あ、何らかのことで苦労を重ねている執事と臆病な主人公を描いた話なんだな」と言うことくらいは想像できるだろう。そういうことなのである。
つまりライトノベルに「長いタイトル」が増えた理由とは、「小説家になろう」において、タイトルのみで読者に情報をなるべくして伝えるためだったのである。

と、結論づけたわけだが、まだ疑問が残る。上記の天野ハザマ氏の件のような「書籍化の際にタイトルがわざわざ長くなる」のはどういう了見なのだろうか?
うーん、少し考えてみたけれど、「周りがそうだから合わせれば食いつくのではないか」と言う安直そうな理由しか思い浮かばない。先程前回の記事が1万PV近く記録した、と申し上げたがコメントも60件ほどついていた。図々しいようだがもし今回も見てもらえるのだとしたら意見を仰ぎたい次第だ。

3.余談
ここからは小見出し通り本当に余談である。上記の考察はしないし、ライトノベルからも外れたりする。

J-POP最盛期・90年代の楽曲には、今のライトノベルのような「長いタイトルブーム」が存在したといっていい。というか、ほとんどがビーイング系で、それも1993年辺りにに限ったものなのだけれど。
有名どころだと、B'zの『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』、WANDSの『愛を語るより口づけをかわそう』、DEENこのまま君だけを奪い去りたい』など。この辺のブームの理由については調べてもわからなかったし、当然僕は生まれていないので手掛かりがない。此方も誰かに協力を仰ぎたい次第である。
ただこれらの面白い所は、サビ頭がそのままタイトルになっているということである。1994年の篠原涼子の『恋しさと せつなさと 心強さと』なんかもそうだ。もしかしてタイトルを考えるの面倒になったのかなあ。
更に余談の余談だが、1993-1996年にわたって放送された超有名作品『SLAM DUNK』のOP・EDテーマ6曲(『君が好きだと叫びたい』『ぜったいに 誰も』『あなただけ見つめてる』『世界が終るまでは・・・』『煌めく瞬間に捕われて』『マイ フレンド』)は、『マイ フレンド』を除きなんと6曲中5曲が、上記のような「サビ頭がそのままタイトル」の形である。本当に面倒になったからなのでは? それはそれとしても、面白い話である。

そして現在はと言えば、そもそも邦楽自体の衰退によって目立った長いタイトルの曲は出てこないものの、「水中、それは苦しい」「0.8秒と衝撃。」「死んだ僕の彼女」「それでも世界が続くなら」とか、最早曲名なのかと言いたくなるバンド名が増えているという実態もある。もしかしたらこの辺、世代的な意味で本題のライトノベルの話とも繋がってくるのかなあ。
兎にも角にも、今の若い世代に長いタイトルはインパクトがあってウケるようである。

4.終わりに
とまあ、こんな感じでライトノベルのタイトルが長い理由について脱線しつつも考察をした。前回の時は深夜テンションなのに3時間ほどかかったのだが、今回は夕方に書いて僅か1時間ほどで完成した。量だって前回より格段に多いのに・・・。どうも、時間のあるうちにやっておきましょうということらしい。
実を言えば、僕は「なろう系」に対して大変に否定的である。あらすじじみたタイトルもそうなのだが、実際は中身のワンパターン化と言うものも大きい。この辺について語ると長くなりそうなので、また次の機会とする。
僕は齢18にして懐古厨のような人間なので、どうも新しい文化を受け入れられない。旧態依然と言うか、因循守旧というか・・・。「なろう系」を頭ごなしに否定はしないが、「小説家になろう」さんにはマンネリ化や「長いタイトル」を防ぐためになんとか対策を講じてほしいものである。
ライトノベル」と言うのは独自文化であり、「なろう系」の登場はさらにそれを加速させたといっていい。しかし僕は、どうしても在りし日のボーイ・ミーツ・ガールを手放せないでいるのだ。何か面白いことを期待して、やはり、今はただ待ち続けるのみである。

至高の萌え属性「ツンデレ」は何故見かけなくなってしまったのか?

※この記事は2019年8月13日に書いたものを再度推敲の上したためたもの

唐突に思ったことである。
涼宮ハルヒ柊かがみ惣流・アスカ・ラングレー戦場ヶ原ひたぎ、そして言うまでもなく三千院ナギ、シャナ、逢坂大河、ルイズといった我がアニメ観を彩りしCV:釘宮理恵のキャラ達・・・。 かつてオタク界隈を席巻した「ツンデレキャラ」を今ではすっかり見かけないのだ。
勿論、今でもいないわけではないだろう。しかしいずれのキャラも深夜アニメ視聴者に絶対的な知名度を誇っているとは言い難い。そのようなことを踏まえて、何故、「ツンデレキャラ」を見かけなくなってしまったのだろうか。齢18の弱い頭で少し考えてみることにする。・・・という体の深夜テンションで書いた個人的備忘録である。

曖昧なツンデレの定義

そもそもツンデレの条件って何だろうか。色々な文献を浚ってみたけれど、個人的には3種類くらいに分かれると思う。

1.「ツン」と「デレ」が同じ対象にそれぞれ並立している状態
これが一番わかりやすいかもしれない、いわば最もステレオタイプツンデレな気がする。いわば普段は冷たく接したり時には相手に暴力を振るうような人物が、時としてその相手に「べっ…別にあんたのことなんか好きじゃないんだからねっ!」と隙を見せるパターンである。大体のツンデレはこのパターンが垣間見えるといっていい。この二面性が所謂「ギャップ萌え」を引き起こすのだろう。その過程にある不器用さに萌えるのもまた良し。

2.基本的に周りには「ツン」を貫くが、特定の人物に「デレ」る状態
これはお嬢様タイプのツンデレに顕著だと思う。人の上に立つという立場上、お嬢様には何かしらの矜持がある。そんな中、彼女らの心のオアシスとして、特定の人物ならデレられるという状態を作ることによって、その対象は「自分だけを特別扱いしてくれている」という状況になる。そこにオタクは萌えているのだと思う。オタクが何者でもない社会の歯車であるなら猶更と言っていい。

3.時間経過により「ツン」が徐々に「デレ」へとなっていく状態
出会った時には[ツン 100:0 デレ]の状態だったものが、物語が進むに連れてどんどんデレの割合が上がっていくというものである。好感度のバロメーターと言ってもいいだろうか。基本的にライトノベルのように話が順繰りに進んでいくもののツンデレヒロインはこういったものが多い気がする。例えば、最初は主人公・阿良々木暦の頬にホチキスを綴じたくらいだったのに、キスの過程を経て、最終的には暦とカップルになり、ほぼデレ要素だけになった戦場ヶ原ひたぎなんかがわかりやすい。釘宮キャラも大体これではないだろうか。


ツンデレ」は’’面倒’’である
・・・とツンデレを3種類に分けてみたところで、僕はあることを思った。
ツンデレって面倒だ。
「べっ…別にあんたのことなんか好きじゃないんだからねっ!」というデレがあって初めて「ツンデレ」は成立するし、そのデレを目がけてオタクは「ツンデレ」を愛している。クーデレにしろヤンデレにしろサドデレにしろダルデレにしろ、「デレ」がなければ萌え属性として昇華しないし、オタクは振り向かないのだ。
そうなると、オタク達は「あれ、じゃあ必要なの『デレ』だけでよくね?」という結論に達してもおかしくはない。
そこで、最近のアニメトレンドを振り返ってもらいたい。以前に比べ、異世界転生無双」「日常系」のアニメが増え、全うな「ボーイ・ミーツ・ガール」が減ってはいないだろうか? 一緒くたにしてしまうのもどうかと思うが、これらは安心して・力を抜いて見ることができるアニメなのである。つまり、オタクは以前と比べて疲れてしまったのだ。そしてこれと「『デレ』だけでいい」という概念を結びつける決定的なものが、近年急速にミームとして普及したバブみという新興勢力の萌え属性である。



現代環境にフィットする「バブみ

バブみとは、言わば萌えの対象に母性を感じて甘えたい、という状態を表す感情のことである。特にロリキャラに使われることが多く、例えばゲーム『艦隊これくしょん』の駆逐艦勢なんかはそう言われることが多い。最近では、アニメ『世話やきキツネの仙狐さん』の仙狐さんがこれに当たり、ある種のダメ男製造機としてヒットを飛ばしたのはご存知であろう。
バブみという萌え属性が流行した一因は、個人的に「全肯定」という部分にあると思う。ツンデレと比較して考えるなら、「ツン」を伴わない無条件の「デレ」だ。上述したような「デレ」だけでいいと考えているオタクにはこれ以上ない萌え属性なのである。そしてこれが、SNSを中心としたインターネットを中心に、ペシミストの思考に支配されつつある世の中のオアシスとなる対象となったのではないだろうか。そしてそれが結果として、「ツンデレ」を縮小させてしまったという訳だ。



ツンデレ」の今後

さて、少々話は逸れてしまったが、上記の理由から僕はツンデレを見かけなくなってしまったと推測した。それではツンデレの今後はどうなるのだろうか。このままどんどん忘れ去られてオタク史の1ページに残るのみの死した概念となってしまうのだろうか? 個人的には、そんなことはないのではないかと思う。というのも、これも先程述べたことであるが、現在異世界転生無双」「日常系」という、謂わばツンデレがあまり必要とされないようなアニメがトレンドとなっている。これがまた、以前のように「学園系」「ローファンタジーを中心とした「ボーイ・ミーツ・ガール」の系統が流行るようになれば、再びツンデレヒロインは増えてゆくのではないだろうか。80~90年代にしたって『魔法騎士レイアース』だの『魔神英雄伝ワタル』だの『天空のエスカフローネ』だの、無双はしないかもしれないが異世界転生モノが流行ったではないか。それが少し形を変えつつもまた一周してきたということなのではないだろうか。
詰まる所、今の僕にできることはただ待つのみである。その内きっと、「べ、別にアンタのために待ってなんかいなかったんだからねっ!」と「ツンデレ」は顔を赤らめながら木陰から姿を現してくれるであろう。