ハテナのごとく!

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ライトノベルの「長いタイトル」について考えてみる 他

※2019年9月18日に書いたもの

 

近年、ライトノベルと言えば何でも長いタイトルが主流だ。
例えば今季アニメ化されて放送されている作品では、『うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。』、『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』、『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(Ⅱ)、『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』の4つあるらしい。
正直なところ、まず僕はあまり長いタイトルが好きではない。正確に言えば''捻りのない''長いタイトルにあまり魅力を感じないのである。「これではあらすじを語っているのでは?」という気がしてくるものも枚挙に暇がない。
例えば僕は同じ長いタイトルでも、『たったひとつの冴えたやり方』とか、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』とか(そんなに長くないか?)、少し哲学的に考えさせられるようなタイトルが好みだ。尤も、僕が信仰して止まない『イリヤの空、UFOの夏』、『涼宮ハルヒの憂鬱』のように一線を画す嘗てのラノベでも終始一貫してシンプルなタイトルのものが多いのだが・・・。(特にハルヒなんかは、作者の谷川流氏が吉野朔美氏の『栗林かなえの犯罪』を書店で見てそのまま利用したとかいう話を聞いた)
しかし抑々そういった枠組みの話ではない気がしたのである。なので、前回の記事「至高の萌え属性「ツンデレ」は何故見かけなくなってしまったのか?」があわや1万PVと言うところまで来たことで調子に乗り、またしても考察をした次第である。
なお、今回上げるライトノベルは、知名度などを考慮し、原則としてアニメ化したもののみを考察対象としている。注意されたし。

1.少し前までは「4文字タイトル」が主流だった
思えば、ここまで極端に長いタイトルがライトノベルで使われ始めたのはごく最近である。抑々2000~10年くらいまでは、4文字タイトルのような短いものがアニメを中心にしてそこそこ長い間流行った気がする。この辺りは『ラブひな』や、京アニの『らき☆すた』『けいおん!』あたりの影響が大きいのかもしれない。尤もラノベだと『らき☆すた』以前にも多くあって、『ムシウタ』『まぶらほ』『いぬかみっ!』などなど・・・
あさのハジメ氏の『まよチキ!』なんかは、本来「迷える執事とチキンな俺と」という、「まよチキ」の正式名称がサブタイに入っていたらしいが、刊行の際にカットされている。4文字タイトルが流行っていた証左だろう。
しかし今はまるで真逆である。例えば、天野ハザマ氏の『最弱ランク認定された俺、実は史上最強の神の生まれ変わりでした~お姉ちゃん属性な美少女との異世界勝ち組冒険ライフ~』というもう何が何だかわからないタイトルは、元は『異空のレオスクール』というシンプルなタイトルであったらしい。しかし、恐らく編集との話し合いによって改題され、刊行されたそうだ。このことはTwitterでもそこそこ話題になった。ある意味、現況のライトノベルについての闇のようなものであり、当該のリプ欄は非難と憐憫のツイートが多く見受けられたのであった。一般小説と違ってライトノベルは、いわば漫画のように編集者というブレーントラストが口出ししていくという背景もあるのだろうが・・・。まあ、今は長いタイトルで売れるのだから、編集者の行いは間違っていないだろう。僕にとっては残念ながら、であるが。

2.何故ライトノベルに「長いタイトル」は増えたのか?
さてここが本題。何故「長いタイトル」は増えたのか?
まずタイトルが長くなり始めたきっかけとして、伏見つかさの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』が大きいと思う。上述したような「4文字タイトル」が流行りの中、「長いタイトル」として、アニメ化の際当時かなりその点に注目を集めていたような気がする。(当時僕は小3だけれど、この時点で3年ほどパソコンを扱っていたので何となく覚えている)
そして「おれいも」は爆発的なヒットを見せた。そこから2012年には『この中に1人、妹がいる!』『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』など妹ものも目立つ。そして13年はもっと「長いタイトル」が顕著になり『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』などなど、次第に長いタイトルが増えてきたのである。

しかしこれらはまだ序の口であった。10年代も半ばの頃、「なろう小説」なる概念の誕生である。小説家になろう自体は2004年からあるものの、2015年まででそこからアニメ化されたのは『ログ・ホライズン』のみである。そこから2016年から爆発的にアニメ化がなされたのだから、「なろう小説」と言う概念が、オタクに膾炙するという意味では僅かここ3年ほどで誕生したというのは間違いないのではないだろうか。
そうした「なろう小説」ブームを根底とすると、「長いタイトル」の理由が自ずと見えてきた。



此方の画像を見て頂きたい。これは、「小説家になろう」のトップページである。案の定、「なろう系」に象徴されるような長いタイトルが並んでいる。(しかも、4/10は全タイトルが見えていない)
お気づきだろうか。そう、トップページには小説の内容がタイトルしか見えていないのである。そうなると、なるべくこのトップページで情報を伝えたい。皆そう思うはずだ。その結果として、話の内容を伝えるために、粗筋じみた、矢鱈長いタイトルになってしまったのではないだろうか?
例えば上記で述べたもので、「まよチキ!」では何がどういう内容なのかさっぱりわからないが、「迷える執事とチキンな俺と」だったら、「あ、何らかのことで苦労を重ねている執事と臆病な主人公を描いた話なんだな」と言うことくらいは想像できるだろう。そういうことなのである。
つまりライトノベルに「長いタイトル」が増えた理由とは、「小説家になろう」において、タイトルのみで読者に情報をなるべくして伝えるためだったのである。

と、結論づけたわけだが、まだ疑問が残る。上記の天野ハザマ氏の件のような「書籍化の際にタイトルがわざわざ長くなる」のはどういう了見なのだろうか?
うーん、少し考えてみたけれど、「周りがそうだから合わせれば食いつくのではないか」と言う安直そうな理由しか思い浮かばない。先程前回の記事が1万PV近く記録した、と申し上げたがコメントも60件ほどついていた。図々しいようだがもし今回も見てもらえるのだとしたら意見を仰ぎたい次第だ。

3.余談
ここからは小見出し通り本当に余談である。上記の考察はしないし、ライトノベルからも外れたりする。

J-POP最盛期・90年代の楽曲には、今のライトノベルのような「長いタイトルブーム」が存在したといっていい。というか、ほとんどがビーイング系で、それも1993年辺りにに限ったものなのだけれど。
有名どころだと、B'zの『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』、WANDSの『愛を語るより口づけをかわそう』、DEENこのまま君だけを奪い去りたい』など。この辺のブームの理由については調べてもわからなかったし、当然僕は生まれていないので手掛かりがない。此方も誰かに協力を仰ぎたい次第である。
ただこれらの面白い所は、サビ頭がそのままタイトルになっているということである。1994年の篠原涼子の『恋しさと せつなさと 心強さと』なんかもそうだ。もしかしてタイトルを考えるの面倒になったのかなあ。
更に余談の余談だが、1993-1996年にわたって放送された超有名作品『SLAM DUNK』のOP・EDテーマ6曲(『君が好きだと叫びたい』『ぜったいに 誰も』『あなただけ見つめてる』『世界が終るまでは・・・』『煌めく瞬間に捕われて』『マイ フレンド』)は、『マイ フレンド』を除きなんと6曲中5曲が、上記のような「サビ頭がそのままタイトル」の形である。本当に面倒になったからなのでは? それはそれとしても、面白い話である。

そして現在はと言えば、そもそも邦楽自体の衰退によって目立った長いタイトルの曲は出てこないものの、「水中、それは苦しい」「0.8秒と衝撃。」「死んだ僕の彼女」「それでも世界が続くなら」とか、最早曲名なのかと言いたくなるバンド名が増えているという実態もある。もしかしたらこの辺、世代的な意味で本題のライトノベルの話とも繋がってくるのかなあ。
兎にも角にも、今の若い世代に長いタイトルはインパクトがあってウケるようである。

4.終わりに
とまあ、こんな感じでライトノベルのタイトルが長い理由について脱線しつつも考察をした。前回の時は深夜テンションなのに3時間ほどかかったのだが、今回は夕方に書いて僅か1時間ほどで完成した。量だって前回より格段に多いのに・・・。どうも、時間のあるうちにやっておきましょうということらしい。
実を言えば、僕は「なろう系」に対して大変に否定的である。あらすじじみたタイトルもそうなのだが、実際は中身のワンパターン化と言うものも大きい。この辺について語ると長くなりそうなので、また次の機会とする。
僕は齢18にして懐古厨のような人間なので、どうも新しい文化を受け入れられない。旧態依然と言うか、因循守旧というか・・・。「なろう系」を頭ごなしに否定はしないが、「小説家になろう」さんにはマンネリ化や「長いタイトル」を防ぐためになんとか対策を講じてほしいものである。
ライトノベル」と言うのは独自文化であり、「なろう系」の登場はさらにそれを加速させたといっていい。しかし僕は、どうしても在りし日のボーイ・ミーツ・ガールを手放せないでいるのだ。何か面白いことを期待して、やはり、今はただ待ち続けるのみである。