まず最初に言わなければらならないことがあるのだけれど、僕はあまりこういう記事を書きたくなかった。根も葉も実りもない堂々巡りの諍いを繰り返す連中の渦中にむざむざ首を突っ込もうとするほど馬鹿ではなかったはずだから。けれどどうしても僕は奥歯に物が挟まったような違和感を覚えて書かずにはいられなくなった。だから文章を少なくして端的に書くし、最初に言いたいことを明示する。
近年「女性蔑視」を盾にして表現規制をのたまい、インターネットを悪い意味で騒がせている連中は「フェミニスト」ではなく「ミサンドリスト」と呼ぶべきであると。
何もこれはそのミサンドリストだけに向けた言葉ではない。日夜表現を守ろうとやっかんでいるネットギークにも戒めを込めて今一度言葉の意味を見直すべきだというのが執筆契機であり、正しく女性の権利を守ろうとする人間、即ち本来の意味でのフェミニストたちまで謗ってはならない。仮想敵はきちんと見定めることだ。
定義づけもないまま現状の「ツイフェミ」などと呼ばれている"自称"フェミニスト(以下全てこの連中をツイフェミとかミサンドリストと呼ぶ)をミサンドリストと呼んだところで説得力も生まれないだろうから、フェミニストとミサンドリストの正しい意味について説明しよう。
まずフェミニストについてである。一般的に日本語では「女性解放思想」などと訳されるが、これは字面の通り従来の女性観点の価値観からの脱却を示すものであり、封建主義の瓦解と共に誕生したものだ。有名なのがフランス革命である。ラファイエットにより起草された『フランス人権宣言』には一般市民が持つべき様々な権利が書かれていたのだが、とりわけ参政権は男性のみとされていた。もとより革命期からテロワーニュ・ド・メリクールのような強い女性のシンボルたるような存在は現れていたが、この男性のみの参政権が明言されたことにより一層女性の権利は叫ばれることとなった。結果オランプ・ド・グージュやメアリー・ウルストンクラフトらの手によりフェミニズムが産声を上げ、当時にフェミニストなる概念が生まれたのである。
そしてこれは日本でも例外ではない。周知の通り鎖国をしていたため女性の権利が叫ばれるようになったのは明治以降になるのだけれど、平塚らいてうや市川房江といった義務教育でも習うような偉人女性が婦人解放運動を行い、努力の末女性の参政権などが認められて現在に至る訳だ。
つまるところ現状ギークたちが蔑称の如く呼んでいる「フェミニスト」はこれら女性の権利を切り開いた偉人を「ツイフェミ」と同じレベルに落として貶すこととも同義であり、侮辱していると受け取られてもおかしくない。言葉は時代とともに移り変わるものであり、それもまた文化であると僕は熟知しているが、流石にこれは看過できない案件である。
さて、一方の僕がツイフェミと同一視したミサンドリストについてである。これは日本語に訳すと「男性嫌悪」であり、最早ただの感情論で行動していると言っても差支えない。そして感情というものは時に恐ろしいものを引き起こしてしまうこともある。かつてアメリカにヴァレリー・ソラナスというミサンドリストがいた。彼女はSCUM Manifesto("scum"とは"Society for Cutting Up Men"、即ち全ての男性を抹殺するという意味。単語のscum(ごくつぶし)ともかかっている)という苛烈な公約を掲げ、ついには著名画家アンディー・ウォーホルを銃撃して重傷を負わせるという犯罪まで犯してしまう。当時世間を席巻していたウォーホルを狙撃したことは当時世間を大いに騒がせ、後に映画化に至るまでとなった。
――とまあ、これはだいぶ極端な例になるけれど、要はミサンドリストというのははっきり言ってしまえば「自らが女性に対しての性差別を助長すると思えばもれなく排除に動く」といったろくでもない連中である。アニメ・ゲームをやたらと槍玉に上げたがるツイフェミを僕がミサンドリストと同一視しているのはこういった所以である。そのような文化が直接女性のみに危害を及ぼす例があったならまだしも、勝手にテリトリーに入っていって発砲されているのだから関係者にとってはたまったものではないわけであり、傍から見ていればその主張は思うようにならず駄々をこねている幼児のような滑稽なものにしか見えず、結局感情論で排斥したいだけではないかと訝しんでいる……というよりそう思ったからこの記事を書いている。
もちろん、Twitterをやっているフェミニスト(≠ツイフェミ)の中には先人たちの意志を引き継ごうとしているきちんとした女性の権利を主張する人物もいる。だから今一度告げたい。「"ツイフェミ"は正しいフェミニストの活動を邪魔するな」「ネットギークは浅慮で正しいフェミニストまで巻き込むな」とね。