ニコニコブロマガからここへ移動してきて初めの執筆となる。そして前回の記事から実に1年以上が経過していた。何せパルパレオスのレンダーバッフェから見たサラマンダーよりスロウ・ペースで書くのだから初めにこのブログを再開設するにあたって書いた通り1年に一回執筆できればいい方で、ただただ思い付きを流水のように書いているのである。そしてこの流水は普通に流れている分にはまだましなのだけれど時に何の前触れもなく凍結したり、或いは物理法則を無視して逆流するものだから氷のように固まった思考でいられない。それでも辛うじて比較的まともに見える水のような部分を集めて採取しどうにか、ない語彙力と行動力でこうして言語化しているのがこのブログの記事なのである。だからこの水が硬水なのか軟水なのか、下手したら毒を含んでいるのかすら僕には解らないので、どうにか読者の皆様で味見をして頂きたい。
そういう訳もあって、僕は来る8月8日に忌々しき二十歳を迎えるにあたって書く最後の記事となるであろう。
前置きが長くなってしまったが今回のタイトルは「僕なんかに最近の邦楽が刺さらなくて良かった」というものである。字面だけ見るとなんともネガティヴな印象を受けるが、そういう訳ではない。多くの人生をネットに費やしてきた自称・観測者が今の邦楽について非難するわけでも褒めそやすわけでもなく、エゴイスティックを以てまくしたてるだけだ。
ただ一点重要なことを述べさせてもらうと、僕は最近の邦楽に大して詳しくない。後述する現在の邦楽における主要アーティストの名前を初めてタイピングしたと言っていいし、最早邦楽の一部分として大いに取り上げられるアニソンを昔からずっと聴いてきたが、そのアニソンですら最近のものはあまり詳しくないという有様だ。だから説得力は皆無と言っていい。寧ろ、この説得力がない状態で読んでもらう方が気が楽というものだ。目的もなく他者に影響を与えるのは疲れるからね。
さて、最近の邦楽アーティストと言ったら誰を思い浮かべるだろうか。あいみょん、King Knu、米津玄師、YOASOBI、Official髭男dismとか? 思い浮かべるアーティストは誰だっていいけれど、最近はAKBやジャニーズの衰退もあって10年代前半の代表格であるアイドル的売り方も減って新風が吹きこんだことにより、最近の邦楽は再興していると言われている印象を受ける。
実際僕もそう思う。アイドル一色だった街角やテレビで流れる音楽は最早多角的なアーティストに渡り、音楽の坩堝とも言えるほど豊かになったと感じる。
しかし何故だかこの僕には最近の邦楽が刺さらないし聴こうともしない。まともな生活を送っていない僕にスチューデント・アパシーなんてものはないし、それを差っ引いてもとてつもなく無気力で無力な人間であるにも拘らず、一昔前の曲はずっと聴いているし生きる糧にしているので多分関係ないのだと思う。かといってもちろん別に嫌いなわけではない。ちょっとだけ00年代の雰囲気が戻ってきた感じがするし、好きな曲がある訳ではないのだけれど寧ろ好感はとても持てる。
じゃあ、どうして僕は最近の邦楽が「刺さらない」(「嫌い」ではないことが重要だ)のか、僕なりに考えてみた。そうして出た結論がこうである。
カノン進行ではないから。
これが結論である。
もし普通にこの記事を読んでくれていた有り難いユーザーがいるのなら少しあらぬ方向から槍を入れられ、「カノン進行とは何だ?」と疑問を呈したたかもしれない。
或いはこうだ。更にこの記事を読んでくれていた有り難いユーザーの中に少しでも音楽に詳しい人がいるのならあいみょんの『マリーゴールド』やOfficial髭男dismの『Pretender』はカノン進行ではないのか、と言うかもしれない。
後者の疑問については今回のブログを書くにあたって一つのファクターともなった要素だから後述する。
まずは取り敢えずカノン進行というものに軽く触れる。調べればすぐに出てくるものだから必要ないくらいだけれど、体裁的に一応ね。
カノン進行というのは、まだ和音すら黎明期であるバロック期にヨハン・パッヘルベルが発明した「C→G→Am→Em→F→C→F→G」のコード進行のことだ。心地よく響くこの進行は各地の音楽文化に浸透し邦楽でも半世紀にわたってずっと使われ続けているわけだけれど、その一方でとある弊害も生んだ。
カノン進行はあまりにも使いやすすぎるのである。
「魔法のコード」と呼ばれるほどの利便性に起因して巷では一発屋のアーティストを多く生むことになったとされていて、これはおおむね正しい(しかし僕に言わせれば厳密には少し違う。コードはいくらでも改変しようがあるからだ。ただ本題とは逸れるのでここでは述べない)。
誰のどの曲かはそれこそ調べればすぐに出てくる話なので割愛するが、特に90-00年代の一発屋アーティストは多くがカノン進行を使っていた。しかし過去に一発屋がカノン進行を多く使っていたことに対し、先に現代邦楽の代表的カノン進行として述べた『マリーゴールド』や『Pretender』は一発屋によるものでもないし、一時期の邦楽と比べると圧倒的に減ったカノン進行の数少ない生き残りと言っていいのである。だからあまりにも上位存在過ぎて、人々に膾炙され過ぎて僕は触手がそこへ伸びなかった――。これが先程の想定される2つ目の疑問に対する僕の答えだ。
そして「魔法のコード」に頼らなかった今のアーティストたちを讃え、今一度邦楽文化を見直す必要があるだろう。
さて、上述のプロセスにより僕の中で「最近の邦楽が刺さらない」理由は腑に落ちたわけだが、ここにもう一つの疑問が残る。
「何故カノン進行の楽曲は減ったか」ということだ。
これに対しては僕は以前から明確な答えを持っていた。それを紐解く鍵は、一昔前にアンダーグラウンドで誕生した音楽文化である。
そう、ボーカロイドだ。クリプトンから発売された2004年のMEIKOを嚆矢とし、2007年に初音ミクが発売されたことをきっかけにニコニコ動画で爆発的にヒットした。そして次元の壁をも乗り越え地上に進出したボカロは今や大衆の知名度もさることながら、米津玄師やYOASOBIやヨルシカなどと言ったアーティストを生み、現代の邦楽において大きなウエイトを占めているのは最早言うまでもない。
さてここで、少しでも知っているユーザーにはいくらか、有名と言えるボーカロイドのヒット曲を思い浮かべてもらいたい。願わくば2010年以降の曲で。
その中に
君にカノン進行かどうかの判断がつかなくても構わない。何故ならほとんど2010年以降にはないからである。多少古めのボカロを知っていれば『恋スルVOC@LOID』『コンビニ』『SING&SMILE』『愛言葉』などのカノン進行のボカロ楽曲は出てくるかもしれないけれど、これらは全て2010年以前の楽曲だ。それ以外には『千本桜』『マトリョシカ』『ローリンガール』などなど最早挙げるまでもないが、これらは全て王道進行・小室進行ないしそれに属するものである。
詰まる所小室・王道進行が多い(=カノン進行が少ない)理由はほぼここにあると言っていい。ボカロPが邦楽の世界に現れたのとほぼ同時期にそれを見ていた視聴者も聴き手としてそちら側に現れ、よりキャッチーなメロディを浴びせる必要があったのだろう。その解のうちの一つがこうした試みだったわけである。そしてその視聴者のうちのごく一部はアーティストともなった。
ここで少しだけだけれど更に遡ってみる。ボカロPがどうして小室・王道進行を使うようになったか、だ。
僕は正直なところ王道進行が増えた理由はさっぱり見当がつかないね。ただ一つだけ言えることは、王道進行が聴く人を飽きさせにくい循環進行だということである。明るさと暗さ両方を併せ持つ王道進行は多様な世界を見せてくれる。そうした「飽きの来ない」進行に若者は惹かれたのではないかと推測している。しかしながらコード進行一つでそう心変わりするものでもないし、仮にそんなことをする人がいたら音楽に詳しい変人である。だからこの持論には自信がない。
それなりに量産の根拠があるのがもう一つの小室進行の方。勿論あくまで僕の推測でしかないので真に受ける必要はない。
ヒントはそのものである「小室進行」の「小室」である。つまり小室哲哉だ。言うまでもなく彼は90年代の邦楽を席巻し歴史に名を残した大プロデューサーである。僕自身は全盛期の小室時代が過ぎた後のトランス音楽に着目していて、後にI'veなどにも繋がったことを考えると語ることは多いのだけれど、ここではその話の幕はない。偉大なのは彼が生み出したコード進行である。
小室進行。
Am-F-G-Cのたった4つの基本軸からなるコード進行ながら、彼はこれを使って邦楽を支配したのである。
そして先に挙げた『千本桜』の黒うさP、『マトリョシカ』の米津玄師(ハチ)、『ローリンガール』のwowakaなどは大体80年代後半から90年代前半生まれである。ちょっと無理があるかもしれないけれど、彼らは小室が全盛期の時代に触れてはいないだろうか。10歳頃に聴いている楽曲であれば割と肌身にしみつくことはあるし、僕なんてその頃の楽曲をいつもずっと聴いている。或いはその後の宇多田ヒカルの登場も大きかったのかもしれないけれど、こうした世代と被っていることこそが小室進行がボーカロイド及び今の邦楽で増えたことに脈々と繋がっているのではないかと考えてみた。
小室死しても小室進行は死せず。
後の世にそう呟く日が来るのかもしれない。
僕が言いたいことは以上である。
相当久しぶりに根を詰めてつらつら書き連ねてきたわけだけれど、何度も言っている通りここに書いてある意見が正しいとは全く限らない。重篤なパラノイア患者が書いた落書きと思ってもらっても結構だし、或いは幽王が褒姒のために挙げた狼煙ぐらいには事実の信憑性がないと思ってもらっても構わない。
ただ一つ言いたいのは、馬鹿にされる音楽なんてものは決してあってはならないということである。