※当記事はクイズを作った延長線上で書いた記事であるゆえ、「作問」とか見慣れぬ単語があったらクイズのことだと思って頂きたい。
いきなりだが、諸君は長い間アニメ(ドラマでも映画でもよい)を見ていて、作中人物がスマートフォンをいつ、どの年の、どの作品から使いだしたかを覚えているだろうか?
愚かなことに僕は作問まで考えたことはなかった。呆けた面でアニメを見続けている間にも、いつしか登場人物が持つそれはガラケーからすり替わっていた。さながらアハ体験のように澄ました顔で。
これについて原因を分析しあえて自己弁護するのであれば、携帯電話が主眼に置かれる作品でない限り、所詮マクガフィンに過ぎない携帯に視点を置く人間なんていないから、という理屈が成立する。仮にそれに注目するような人間がいたとしたら、ガラケーのアンテナから送信される怪電波に従って動いている携帯星人に違いないはずである。
が、しかし、だ。いくら言い訳しようが喚こうがどこかに「作中の端末がガラケーからスマホに変わっていた」というシンギュラリティが存在したはずなのである。それなのについぞ僕は見過ごしてしまった。本当はリアルタイムで見れるはずだったその転換点を追えなかったことがが悔しくてたまらかった。
だから、後の祭りだとは解っていても、ガラケーとスマホの境界線を探そうと必死になってキーボードを叩いた。己の無力さを感じながら。すると、「初めてスマホが登場したアニメは何か」というまさに求めている内容に沿った情報が出てきた。彼がどのような方法を用いて調査したかまでは明らかではないが、携帯星人は実在したのだ。空の青さを知ったところで、電子の海は果てしなく深いことを痛感させられる。
こうなってしまえば決断は早い。僕はありがたく情報を拝借し、今回の企画のうちの1問として出そうと相成った。勿論1つの情報を鵜吞みにしてしまうのは公の場に出す作問としては相応しくないので、いつものようにオープンソースと、僕自身が見ていたこの近辺のアニメ(幸い、2006-07年のアニメは殆ど見ている)の記憶とを突き合わせながら正当性を問うた。今回は多少なりとも特殊な例ということもあり「独自研究を含む」という予防線に近い前フリも入ったが、概ねかようにして1問が作られるのである。
思うに、僕が今まで幾度となくやってきたこのことこそ、インターネットの"Hello, World"を象徴する出来事だと思うのだ。突然ブログタイトルを回収しにかかったような格好で申し訳ないが、ここで1つ問う。
諸君らにとって"Hello, World"とはどのような想像を掻き立てるものだろうか?
無論、形而下においてHello, Worldというものは一次元の文字情報に過ぎない。このブログを読んでいるような人なら大抵は知っているだろうけれど、"Hello, World"というのはベル研の偉大なる計算機学者、ブライアン・カーニハンが初めて書いたとされる最も単純なプログラムのひとつである。実際のところ、出力された言葉にHello, World以上の意味はなく、「こんにちは、世界」と訳す必要もない。なんなら利便性の問題さえ除けば"Gwkkim Qieks”というようにキーボードの文字を1つずらして打ち込んだって本来は何ら問題がないはずである。なぜなら、プログラミングにおけるHello, Worldに「プログラムが想定通りの動きをしていたか確認する」以外の意味はないからだ。
しかし、ここで先程の質問を見て頂きたい。僕が問うているのは現実的なプログラムとしての話ではなく、「どのような想像を掻き立てるか」である。僕は今からそれを書こうと思うので、差し支えなければ諸君らも考えてみてほしい。なおプログラミング言語を指すHello, Worldに固執する必要はない。BUMP OF CHICKENの楽曲『Hello,world!』でも、エロゲーの『"Hello, world."』でも、アニメ映画の『HELLO WORLD』でも、そもそもHello, Worldという言葉にまつわるものでなくても構わない。あくまでイメージの話なのだから。とかくあなたの思う「ハローワールド」を描いてほしいのだ(余談だが、Wikipediaの関連項目における「Hello world」は青に関連するものばかりであった。後述するが僕もこうした潜在的イメージの影響を受けたようだ)。
別に全く考えなくてもいいし、その上で僕のことをPPDだとかNPDだとかパラノイアだとか心中で嘲罵したって一向に気にはしない。しかしインテルの創業者の一人、アンドリュー・グルーブはかつてシリコンバレーのことを「パラノイアだけが生き残る」と言っている。先のプログラミングの話の流れから来ると、この場でパラノイアと言ってしまうのは少々皮肉めいたものになる気がする。
それはさておき、僕の"Hello, World"のイメージはこうだ。
ある男がPCを使っていた。男を取り巻くのは明かりも消えた暗い部屋で、カーテンは閉め切られ、PCの明かりだけが寂しく点っている。彼はキャスターに座りながら膝を抱え、生気の宿らない目で、そして書痙のように震えた手でキーボードに"Hello, World"と入力し、やっとの思いでエンターキーを押下した。すると――。
電光掲示板のように読み込まれたHello, Worldの文字がロード画面に移り変わり、それが100%に到達した途端、辺りはまばゆいほどの光に包まれた。男のいた暗い部屋を漂白するように。突如放たれた閃光に眩んだ男が視力を取り戻すと、さっきまでモノクロに包まれていた部屋が色を取り戻し、あるべき姿を湛え、いつの間にか開いていたカーテンからは陽光が降り注いでいた。一瞬の出来事に混乱していた男が慌ててPCに目を戻す。すると、極彩色に包まれた亜空間を背景にして、1人の少女がこちらに微笑みを投げかけ、こう言うのである。
「ハロー、ワールド!」と。
いかがだろうか。1単語から想像するものを言語化しろと言われてもなかなか具体的にアウトプットできるものではないが、一度提言した以上はストーリー仕立てで書くべきであると判断した。このイメージは実在非実在のあらゆるものがミキサーにかけられ僕にしか飲めないジュースとなったものを、他人にも伝わるように言語化という体で可能な限り表現しているだけに過ぎず、実際にはもっと複雑なはずである。しかし1つ言えることがあるとすれば、このイメージの一部の元ネタを思い出せることだ。それがこれである。
livetune feat. 初音ミク 『Tell Your World』Music Video
早いものでもう発表から10年以上が経過している楽曲だが、黎明期の「Google Chrome」のイメージソングとなってCMで流れたということもあり、ボカロに興味がなくともご存じの方は多いだろう。
僕はニコニコ動画の「最古参」というわけではないが、登録した2008年頃から電子の海を漂うプランクトンでは決してない姿ある者として肩までニコニコに浸かっていたし、加えて幼い頃から沿ってきた遥か地下の文化が1Fにあるお茶の間に流れるということも含めて、これらが結びついたことにより鮮烈な印象をもたらしたのだと思う。尤も今の僕はオタクカルチャーが表に出ることを嫌う。そして一定の汎用性の高い構文を持たず、画一化されていないコミュニケーションが図れ、かつ閉鎖的でアンダーグラウンドなものにこそ価値があるという視野狭窄で頑執妄排な思考を拗らせている。これはちょうど『Tell Your World』から1年後に起きた、ある掲示板の事件が尾を引いている。
――でも、それはまた別の話。少なくともこの頃の僕にとって、『Tell Your World』は「インターネットの将来」という広い概念にも拘らず、これ以上ない期待を寄せる描写がされたものであった。先程の驢鳴犬吠たる妄想日記に書いた「極彩色に包まれた亜空間」というのはまさにこのPVで初音ミクが躍っている空間そのものだし、今でもそんなイメージが去来しているのだと思う。
要するにインターネットとは、「画面の向こうにいる嫁」的な二次元でもなく、現実に即した三次元でもなく、時間軸のある四次元なのである。我々が普段何気なく目にする書き込みや呟きなどといったものは、全て過去に位置している。僕もそうして過去の文献を漁って情報を入手したわけであり、誰かが電子の海に情報を発信したから、サルベージをして情報を享受できたのである。その内技術が発達すれば、やがてポリトープを飲み込むほど高次の存在になる可能性を秘めているのがインターネットなのだ。
四次元というとドラえもんの四次元ポケットを思い出す方は多いかもしれないが、思うに四次元ポケットもまさしくインターネットであると言える。数多のひみつ道具が入っていながらどうしてすんなり希望のひみつ道具が取り出せるのか、と疑問に思った方は多いだろうし、僕も昔はそうであった。しかしどうやらこの四次元ポケットというものは優れもので、単なる無限収納機構というだけでなく、欲しいひみつ道具を脳内にイメージしてからポケットに手を入れることによって希望通りのものが出てくるらしいのである。なお稀に「あれでもないこれでもない……」とか言いながらたくさんの道具を床に打ち捨て、希望するひみつ道具を探すドラえもんを見たことがある人もいるかもしれないが、あれは適切に脳内にイメージできてないからであろう。流石、きちんと描写されている。
インターネットの検索にしたって同じだ。事前に何のどのような情報を知りたいかイメージすることによってより適切な検索ワードを打ち込むことができ、希望に沿った検索結果が表示されるのである。反対に情報を整理せず闇雲に「あれでもないこれでもない……」をしてしまうと欲しい情報は出てこないし、時間も手間もかかる。泣きっ面に蜂である。
……と、色々くどくどと述べてきたが、以上をもって僕は満を持したと思っているので、ここで1つの仮説を投げかけたい。それはブログタイトルにある通り、「インターネットはセカイ系」だということである。
突然の論理の飛躍に狼狽えたかもしれないが、順を追って説明していく。まず今回の企画のテーマでもある「セカイ系」についてだが、その意味については調べれば解ることだし、度々俎上に載る定義の曖昧さについても話がややこしくなってしまうのでここでは触れない。とりあえず、ここではセカイ系の定義を「きみとぼく」に設定している。これはセカイ系を語るうえで最もよく取り上げられる概念であり、東浩紀の『波状言論』ではニトロプラスの大樹連司がそう主張するなど由緒正しい説である。概ね「ボーイ・ミーツ・ガール」に近いもの、と考えてもいい。
尤もセカイ系の代表格としてよく上げられる『涼宮ハルヒの憂鬱』なんかは、僕に言わせればセカイ系と日常描写の代表例こと空気系との間の子だと思っているのだけれど、これについて触れると話がややこしくなってしまうので以下略。よってここではセカイ系の原点Oを、こちらもまた代表的な作品である秋山瑞人の『イリヤの空、UFOの夏』に設定している。今回の企画にも登場したし、今は夏だし、ちょうどいいはずである。
かような形で、ここでは大前提:セカイ系=小前提:きみとぼくという図式から、きみとぼく=インターネットという結論になることを理解してほしい。詐欺師が愛して止まない三段論法であるが、生憎僕にはその素質があると考えているので使わせてもらう。
インターネット=きみとぼくという仮説を僕が打ち立てた時に、まず疑問に思うだろうと推測されるのは、「インターネットは自分1人と無数の人間で成り立っているのではないのか?」ということだ。確かにインターネットは俯瞰したときにたった1人が数億人もの人間を相手にしている構図が成立するかもしれない。しかし、それはあくまで俯瞰の話。1人称で見れば所詮[ぼく - 他人]の関係に過ぎないのではないか、と思うのである。
もう少し説の柱を補強しよう。僕が忌み嫌うものの1つに匿名掲示板というインターネットの象徴がある。彼らはコテハンでない限り基本的に匿名であり、ごく一部言動に特徴がある者を除けば個性というものが発現しにくい。そして、その状態で議論が発生し、二項対立が発生したとして、意見1をA、意見2をBとする。そしてあなたはそのどちらかのグループの円卓についた。
当然、掲示板に書き込みをしている人間は複数いるのだからA派のグループとB派のグループに分かれて、日常生活でヘイトを溜めている連中が「レスバトル」をする。5ちゃんねるではよくあることだ。そしてここからが問うべきところなのだが、あなたは同じグループに匿名xと匿名yなる2人の人物がいたとして、彼らを区別して議論をするだろうか?
僕は否だ。匿名という特徴がない存在である以上、「グループにいる集合体」としか認識できないからだ。仮に区別しようとしても、潜在意識ではどこかシャム双生児のように繋がって見えるはずである。こうして軍隊アリのように団結し、自身が強いと錯覚した匿名は何か大きなことをしでかすこともあり、まるでスイミーのように1つの集団となる。この場合「眼」になっている黒い魚は、あなたなのである。ゆえに「きみとぼく」なのだ。神様(読者)の視点から俯瞰して見れば「巨大な魚」に見えるのだろうけれど。
……じゃあ、対岸の意見のグループは誰なのかって? それはまた、[きみ]ではない別の登場人物なのではないか。と考えている。当たり前だが、セカイ系がいくらきみとぼくの物語だからと言って登場人物が2人だけしかいないなんてことはない。だから対岸にいるのは主人公と敵対する悪の親玉だったり、机をくっつけて弁当を食べるような間柄の友人であったり、主人公に強い影響を与えた大人だったりするのではないか。この辺りは対岸の主張によって千変万化するだろう。
先程「匿名という特徴がない存在である以上」と書いたわけだが、では匿名でない、主流のSNSのようなハンドルネームがついたインターネットはどうなるのか? という疑問が湧くかもしれない。しかし、この状態でもやはり僕は「きみとぼく」を主張する。
それは何故か。思うに、匿名から脱した状態でもインターネットの人間は1つのテーマのもとに群れたがるからだ。いわゆる「界隈」というものである。例えば横山光輝作画の漫画『三国志』には、「我ら生まれた日は違えども 死す時は同じ日同じ時を願わん」という名台詞がある。まあこれは現実に起こった話でインターネットの話ではないのだが、「コミュニティを形成して集団になりたがる」という点では匿名の有無に拘わらず変動しない。そしてこんな感じのキザなセリフを言うと先程と同様に「団結」が発生して、「ぼく」の1人称で見た時に1つの集合体となる。やはり、インターネットではどこでも[ぼく - 他人]の構図が成立しうるのだ。
さて、僕の想定できる限りの疑問と書きたいことが紹介できたので、以上をもって「インターネットはセカイ系」の主張を終える。企画の話になるが、今回の作問にはいつも以上にテーマがあった。普段は大体"知らなくても興味を持ってもらえれば幸い"という体で作問しており、まあそれも立派なテーマなのだけれど、今回以上にテーマを駆使したノンジャンルの作問はないと思う。
そもそもかような文章を書いてまでどうしてテーマを作ったかということだが、これは僕が普段企画参加している際の青問にセカイ系のコンテンツが殆どなかったからである。SFを親にして生み出されたライトノベルに端を発するとはいえ、本来は由緒正しい青コンテンツとしてオタクカルチャーに爪痕を残していたはずである。それこそ先述した『波状言論』なんかはオタクの教科書ではなかったのか――。そうして途方に暮れていたわけだが、しかしどうしようもないものはどうしようもない。打ちひしがれるしかなかった。僕は無力さに関してだけはセカイ系の主人公にも引けを取らないのである。
ならば、布教するしかない。人望がないのでどの程度企画に参加してもらえたのか、もっと言えばこの文章を読んでくれたユーザーはさらに絞られるだろうが、僕にできるのは所詮一次元にしか満たない文字を紡ぎ続けることだけである。けれど、この文字が先に触れた「四次元」まで飛躍するかもしれないことがインターネットの良さであり、僕が見つけたレーゾンデートルである。六畳一間に鎮座するラップトップが世界中どこへも行ける魔法のアイテムと化すかは、結局のところ"ぼく"次第なのだ。
……とそれっぽい言葉で締められたところで、今回の結びとする。言い忘れていたが、リンクを張ったコンテンツは是非とも触れて頂きたい。特に秋山瑞人の作品は、触れてもらうだけで今回のブログの意味があるというものである。なお読後感に幸せを求めるのであればノベライズ版の『鉄コミュニケイション』しかお勧めできない。「セカイ系」の性質上仕方ないところもあるが、なにぶん寡作すぎるのだ。
それでは諸君、よいインターネットライフを。