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黄表紙『親敵打腹鞁』とライトノベル『オオカミさん』シリーズに見るおとぎ話のオマージュの雑感 (黄表紙とライトノベルは本当に近しいものなのか)

 

このブログ用の前書き

 なんでも今、VTuber月ノ美兎が公開した「カチカチ山」に関する考察をまとめた動画が話題らしい。僕は生憎VTuberを全くと言っていいほど知らないし見ないのだが、折角なので初めてと言っていいレベルで視聴した。実際の研究批評はその筋の専門家に任せるとして、僕が触れたいのは動画の最後に紹介していた『親敵討腹鞁』(おやのかたきうてやはらつづみ)という作品である。これは江戸時代の戯作・いわゆる黄表紙の代表作なのだが、僕は趣味柄黄表紙の知識をある程度有している。

 そして話が飛ぶが、たまに「黄表紙は江戸時代のライトノベルである」といった主張がなされることがある。確かに次章の「はじめに」に参照されるように、両者の共通点は多い。しかし、その共通点は本質ではなく、突き詰めれば多くの相違点がある。

 数年前僕は、黄表紙ライトノベル双方にある程度知識を有する者として、代表作を参照しつつ両者の違いを主張できないかと考えた。そこで黄表紙側の代表として『親敵打腹鞁』を参照し、比較してみようと思い立ち記事を書いた。しかし、書きあがったところでどうしても知識不足から来るであろう内容の薄さを感じてしまい、所詮個人ブログ(当時はニコニコのブロマガだった)の主張でしかないからとなあなあになって、やめた。それを今回の月ノ美兎の一件に便乗して公開してみようと思うに至ったのだ。

 土台没ということもあり浅く短く安い主張でしかないので、前回の記事のように好きなように考察不足を指摘して頂けたらと思う。有識者と関われるだけで井の中の筆者にとっては無上の喜びである。

 

はじめに

 黄表紙ライトノベルという媒体は、それぞれ当代の省みられていないエンターテインメント小説という点で共通項がある。その内容を見ても軽薄な文体や挿入されたイラスト、見るもののスノビズムを満たす日本語特有の言葉遊びの要素などが互いに見受けられる。とりわけここでは、いずれもストーリーの下敷きによく知れた「おとぎ話」があるケースが散見されることに注目していきたい。

 例えば江戸時代には軍記物語や説話集が庶民の教養として広まっていた背景があり、黄表紙にはそれを反映したパロディの物語が存在する。そしてまた現代でも童話や寓話などといった古くから伝わるストーリーが一般教養として浸透しており、それらがライトノベルの題材となることは頻繁に起こりうることである。またいずれもストーリーの内容だけにあらず、登場人物のみを抽出してキャラクター性の底上げを図る場合も存在し、新たなストーリーを作り上げるきっかけともなっている。

 今回はそうした要素を満たす作品の中から、黄表紙からは朋誠堂喜三二『親敵打腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)』を、ライトノベルからは沖田雅オオカミさん』シリーズを取り上げ、古くから伝わる物語が、どのように黄表紙ライトノベルのような時代ごとのエンターテインメント小説に落とし込まれていったのかを考察した上で相違点を比較していく。

 

『親敵打腹鞁』

 『親敵打腹鞁』は、朋誠堂喜三二(この作品のみ「喜三次」との表記)の作、恋川春町の画で、1777年(安永6年)に刊行された。史上初の黄表紙と言われる『金々先生栄花夢』の刊行が1775年であるから黄表紙黎明期の作品であると言え、朋誠堂喜三二、恋川春町ともに本職は武士であった。

 その内容はといえば、現代にも伝わる昔話『かちかち山』(当時の赤本では『兎の大手柄』)の後日談という形式をとり、親の仇として兎に復讐を目論む子狸の道中とその顛末を描くものである。ここだけ聞けば当時のトレンドでもあった典型的な仇討ちものを思わせるが、その内実は庶民の教養と表裏一体化した地口と、当代の流行風俗への滑稽味が良く表れた、いかにも黄表紙と言っていい内容となっている。中でもこの時代評判であった川魚料理屋の中田屋(葛西太郎とも)と絡めたくだりは真骨頂と言ってよく、義理に迫られた兎が中田屋の前で切腹すると、すかさず手柄の欲しい狸がとどめを刺し真っ二つにする。すると兎は「鵜」と「鷺」になって飛んでいき、最後にはこの2羽が中田屋へ鰻や泥鰌を吐き出すことによって恩を奉ずるという筋書きである。

 物語の中には「鵜」と「鷺」のような言葉遊びはもちろんのこと、当時人気であった人形浄瑠璃『ひらかな盛衰記』や、中国の謡曲『咸陽宮』へのオマージュが見られ、読み手の教養を信用した小ネタがあちこちに散りばめられていることが分かる。この辺り、いかに作中に作者と読者との密かなスノビズム的コミュニケーションを可能にする要素を詰め込めるか、という部分が重要視されていたかが窺い知れるところである。*1

 

オオカミさんと』シリーズ

第一巻『オオカミさんと七人の仲間たち』に端を発する『オオカミさんと』シリーズ(以下、『オオカミさんと』と表記)は、沖田雅によって2006年から2017年まで計13巻が刊行されていた*2ライトノベルである。

 人助けを貸し借りする部活動、通称「御伽銀行」を舞台に、対人恐怖症でヘタレな主人公森野亮士(もりのりょうし)と、強い暴力性を持つが随所に女の子らしい一面を持つ大神涼子(おおかみりょうこ)ら部員たちの交流を描く、いわゆるラブコメディに相当する作品であり、黄表紙と同じく随所にパロディネタも見受けられる。そして彼らの名前が『赤ずきん』に登場する猟師と狼から取られていることからも分かる通り、登場人物の名前や性格、背景は全て昔話や童話といった類の物語がモチーフとなっている。

 しかしモチーフとなっているとは言え、そこにはライトノベルなりの改変が多く加えられ、モチーフとなった物語と、それと乖離したそれぞれのキャラクターが持ちうるギャップがストーリーの焦点ともなってくる。

 例えば「御伽銀行」の部員の一人、そのものずばりの名前である浦島太郎は女たらしだが、小学生時代からの付き合いである竜宮乙姫(りゅうぐうおとひめ)という恋人がいる。そんな乙姫は性産業を牛耳っているという「竜宮グループ」の令嬢であり、自身も桁外れに絶倫な少女として描かれている。結果、常に尽くし続けようとした乙姫によって太郎は腎虚を患うまでとなってしまうが、それでもなお乙姫は愛することを止めない。そんな太郎の行為後の枯れた様子を例えて、涼子はこう呟くのである。

 

 「……………………おい、浦島。おまえなんか玉手箱あけたみたいになってんぞ」*3

 

 こうしたくだりが示すように、おとぎ話を利用してギャップを持った登場人物達の少々下劣な恋愛模様をも描き、ラブコメの形に落とし込んだのが『オオカミさんと』の大きな特徴である。作者の沖田は当作の誕生契機について「誰でも知ってるおとぎ話のキャラがライトノベルに出てきたら?」と思ったことだと語っており*4、誰もが知っている身近なおとぎ話を擬人化させ、ライトノベルの要素を取り入れたものであると言える。

 

両者の相違点 -テーマの有無-

 上記の内容を踏まえて、両者の作品がおとぎ話を下敷きにし、パロディ要素を多分に含む共通項があることが判明した。しかし他方で、「テーマ」の有無が決定的な相違点として存在するように思える。

 鈴木俊幸の言説によると、黄表紙は「ストーリーは二の次、細部の表現やちりばめられたモティーフのほうこそ読みどころ」であり、「作品に一貫する『テーマ』のごときを考えるのは時間の浪費である」という。またこうした風潮はこの時代の黄表紙には特に顕著であるが、そもそも江戸文学にはテーマというものが欠落しており、「文学研究」という枠組みでは本質を捉えられないとまで述べている*5。実際のところ『親敵打腹鞁』を辿ってみても突然の場面転換や支離滅裂な展開なども多く、登場人物の成長らしい成長も見られないことから、終始一貫したテーマらしきものが存在しないことが分かる。

 ではライトノベルオオカミさんと』の方はどうであろうか。もちろん、ライトノベル作品には明確な「テーマ」を標榜するものが多くあり、現代小説の一部である以上は黄表紙と違い全ての作品からテーマが欠落していることはあり得ない。そのような中で『オオカミさんと』は一見平行線のラブコメディを描き続けており、テーマらしいテーマが存在しないように見える。しかし第6巻『オオカミさんと長ブーツを履いたアニキな猫』では、亮士は対人恐怖症を克服し涼子を守ろうと強く意思を固めるシーンがあり、寧ろ王道中の王道と言っていいくらいには、きちんとした主人公の成長譚というテーマが描かれている。いくらコメディタッチを主体としたその他のライトノベルでも、黄表紙のように登場人物がパロディの道具として扱われることは殆どないと言ってよく、黄表紙とは倒錯した関係であると言えるだろう。

 もちろん黄表紙が僅か20ページ余りの絵物語であるのに対し、ライトノベルはその何十倍もの容量があり、成長を描かなければ読者に訴求する物語として成立しえないという背景もあるだろう。ゆえにライトノベルの一話が短編程度の要領であれば、より黄表紙に主体が近づくのではないだろうか。実際のところ『オオカミさんと』は短編集で成り立っている巻もあり、全ての章で必ずしも登場人物の成長とテーマの有無が比例するわけではないことに留意されたい。

 

まとめ

 黄表紙ライトノベルは多くの場合、作品舞台に沿って読者の知的好奇心やスノビズムに訴求する範囲のギャグやパロディに興ずる点は共通している。そしてその根底には、読者が一定の教養を保持していることへの信頼があり、『親敵打腹鞁』と『オオカミさんと』は、ともにそれらをおとぎ話というモチーフに落とし込むことによってエンターテインメント小説として成立させていた。

 しかし他方で、黄表紙は登場人物をパロディの道具として利用しており、あくまで登場人物の成長を描くのが主体であるライトノベルとは異なる様相を呈している。この「テーマ」の欠落は、黄表紙ライトノベル、ひいては江戸文学と現代文学の決定的な違いと言えるのではないだろうか。

*1:小池正胤、宇田敏彦、中山右尚、棚橋正博(編)『江戸の戯作絵本 3』、ちくま学芸文庫、2024年3月、p048-072

*2:2006-2011年まで12巻が、その後暫く空けて2017年に事実上後日談となる13巻『オオカミさんとハッピーエンドのあとのおはなし』が刊行された。

*3:沖田雅オオカミさんと七人の仲間たち』、電撃文庫、2006年8月、p277

*4:毎日新聞デジタル「編集部に質問状 : 「オオカミさんと」シリーズ 世直し?熱血人情ラブコメディー」(https://web.archive.org/web/20100413185853/https://mantan-web.jp/2010/04/09/20100409mog00m200041000c.html) 、2010年4月、2024年8月1日閲覧(Wayback Machineより)

*5:鈴木俊幸『江戸の本づくし: 黄表紙で読む江戸の出版事情』、平凡社新書、2011年1月、p90