この記事は「ニコニコメドレーシリーズ Advent Calendar 2024」に参加しています。基本計画性皆無なものであまりこういう企画に参加できないのですが、急遽16日が空いたので。
本記事の性質は「批評風の私見」です。自分の知識に基づいて閲覧者のことを考えずに書いてしまったので、訊きたいことあったらめちゃくちゃ訊いてください。ニコニコメドレーのみならず、音MADの話が多分に含まれるので、音MADクラスタの方々にも見て頂けたら幸甚です(ニコニコメドレーに興味を持ってほしいので!)。
内容については、諸所にアカデミックな要素に被れためんどくさい語りがある記事なので、必要に応じて目を滑らせながら緩く見てやってください。その中ではニコニコメドレー界隈と音MAD界隈の比較について書いた部分であれば、それなりに理解しやすいかと思われ、最悪そこだけでも読んで頂ければ幸いです。具体的にはこことここです。
はじめに -ニコニコメドレーシリーズの現在地-
21世紀も20年代半ばに差し掛かったこの頃、音MADというコンテンツがアツい。もはや音でないものすら内包し始めたこのジャンルは、神出鬼没とばかりにあらゆるコンテンツを『塊魂』のごとく巻き込む。そこにボーカロイドPなどの主要インフルエンサーとの結びつきや、ネットミーム的な消費需要における意想外の拡散、果ては公式の広告塔としてすら機能する側面も散見され、サブカルチャーにおいて確実に無視できない存在となっている。原作が映画やアニメといった媒体に翻案されていくように(いわゆる「アダプテーション」と呼ばれる行為)、音MADは原テクスト(いわゆる「素材」)から離れて独自の立ち位置を確立していくものになってきたと言える。
こうしてざっと近年の音MADの沿革を書いてみると、今回の主題であるニコニコメドレーシリーズは、本来音MADと非常に近い性質を持っているはずである。基本的にはそこに「楽曲」があれば、という条件付きでこそあるが、それさえあればどのようなコンテンツも構成に組み込むことが可能だし、今を生きるボカロPの中にはフロクロのようなニコニコメドレーシリーズ出身のクリエイターもいる。そして楽曲同士の「繋ぎ」「重ね」という独自のタームをエンターテインメントとして楽しむように、オリジナルのテクストである「原曲」から逸脱した創作物が生産されていることも、音MADと同様に是認できよう。
にもかかわらず、ニコニコメドレーシリーズは音MADのムーブメントと反比例するかのように往時と比べるとかなり下火にある……ように思う。
仮にそうは思っていない方々がいたら申し訳ないので、一旦「再生数」という絶対値をもって参考資料を挙げてみる。ちなみに今回YouTubeの再生数は除外しているので『ニコニコ動画麒麟児』などはカウントしないものとする。とはいえ再生数がYouTube>ニコニコのニコニコメドレーはかなり例外的なものだし、『麒麟児』も後述するようにかなり「音MADライク」な作品ではある。
「ニコニコメドレーシリーズ殿堂入り」(10万再生以上、再うp除外)で2022-2024年の直近3年間の動画をタグ検索した結果、ヒットしたのは以下の7作品である。「なんだ、意外とあるじゃん」と思った諸君らは、今からその7作品を貼るので、そこでもう一度考えてほしい。
2022-2024年「ニコニコメドレーシリーズ殿堂入り」7作品 一覧
1.ウマ娘競奏曲 ~栄冠のファンファーレ~ (2022/2/27)
2.NEW!自慢流曲21's (2022/4/9)
3.ラブライブ!虹ヶ咲学園トキメキアレンジメドレー (2022/5/29)
4.アナザー組曲『ニコニコ動画』 (2022/6/23)
5.S2 (2022/12/2)
6.DREAM SONGS COLL@BORATION (2023/8/12)
列挙してみて、何か気づくことはないだろうか。少なくとも私は、この7作品は2種類に大別することができるように思う。それは「音MADか、音MAD以外か」である。言い方はROLANDのソレになってしまっているが、具体的に示せば、
音MAD関連(人力VOCALOIDなど含む)→1,2,5,6
それ以外→3,4,7
という具合になろう。つまり、音MAD合作の単品としてであったり、音MADムーブメントに基づいたメドレーが殿堂入りの中では大半を占めることとなる。これとニコニコメドレーとの関係性の内実についてはまた後述する。
そして3,4,7に関しても、3はラブライブのテーマメドレーという形態であるし、4はニコニコメドレーの基盤である『組曲『ニコニコ動画』』のオマージュという形になっている。4については、音楽的アダプテーションであった『組曲』が更にオマージュされ、その結果記号化された『組曲』の構成を用いて、さらなるシミュラークルが作り出されているのは興味深い。が、いずれにせよどちらも原義的なニコニコメドレーシリーズかと言われれば、少々道を外れているように思える。
つまり、直近3年で我々のよくイメージするところのニコニコメドレーとして一定の成果を上げたのは、「復旧直後のニコニコ」という、前代未聞かつ比類なき強力な特殊環境を味方につけた7.『ニコニコ動画復活祭』しかないのではないだろうか)。
こうした調査結果が出たところで、現在のニコニコメドレーシリーズの実態を、「コミュニケーションを念頭に置いたポストモダンの社会背景」と「界隈を含むニコニコメドレーと音MADの比較」という2要素から述べ、そこから導出した現状の課題を3つ提示したい。その上で、2要素の視座からニコニコメドレーシリーズが「作品単体として」勢いを取り戻すにはどうしたらよいのか、という展望を述べていくのが本論の目的である。
ニコニコメドレーシリーズは何故衰退したのか?
1.増えすぎたコンテンツ
近年のインターネットというのは、真偽を問わず情報が氾濫している。結果として、マスコミ、ネットサイト、はたまたインフルエンサーなどの個人といった膨大なサプライヤーから自分が正しいと思う情報を掴み取らねばならず、果てはAIが起こすハルシネーションをも潜り抜けなければならないという、真実に辿りつくまでに困難な様相を呈している。
そのような世相のデメリットとは表裏一体なのかはわからないが、それと比例するように我々が享受できるコンテンツというのは日々加速度的に増え続けている。アイドルグループ、アニメ、ソシャゲ、スポーツといった要素がまとめて「推し活」などといったファンダム的な言葉に括られることも近年は珍しくなく、こうした「オタクカルチャー」の社会進出に象徴されるように、メインカルチャーとサブカルチャーの分水嶺は最早存在しないに等しい。そして、これら膨大なカルチャーの選択を完了した(あるいは、「居住地」とした)ユーザーは、同じ選択を行った者同士で「界隈」を成す(もっと前からこの言葉はあったように思うけど「界隈」は今年の流行語らしい)。
こうした界隈の顕在化は、実を言えば30年も前から提唱されてきたものだ。思想家・宮台真司の初期の著書に『制服少女達の選択』(1994)というものがある。宮台はここで、女子高生やオタクを筆頭とした若者文化に世間の共通認識の消滅があることを指摘し、彼女らが家族や学校ではない、新たな共同体を形成していることを説いた。それが街やネットコミュニティといった匿名性の高い「第四空間」と呼ぶべきものであり、その共同体が織りなすさまを「島宇宙化」と名付けている*1。
また、ちょうどニコニコ動画が黎明期であり『組曲』がムーブメントを起こしていた2007-08年頃、サブカル思想に新たな活路を見出した宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(2008)が話題となった。宇野はこの中で宮台の思想について何度か触れながらも、島宇宙の中で閉鎖的になるのではなく、島宇宙同士の交流を推進している*2。
だが、皮肉なことにこの島宇宙同士の交流の結果生まれたものには、ライターのさやわかが指摘したような「ネガティブな交流の活発化」*3という負の側面があった。これをわかりやすくニコニコメドレーの動画で例えてみると、2010年代中期ごろにヒットを飛ばした作品――例えば『ニコニコ動画摩天楼』(2015)(sm27429088)――に、『ラブライブ!』やHoneyWorksの楽曲が出てくると、「は?」という否定を示すコメントが散見されたことと似ている。これは、異なる島宇宙同士が接触を試みた結果生まれてしまった不和だ。右翼と左翼が、巨人と阪神が対立するように、結局島宇宙同士の異なる価値観は相容れない。このような「否定されてしまう」コンテンツがニコニコメドレーに流入し、採用されたという従来の観点から比較した矛盾こそが、コンテンツの増加から見る衰退の始点にもなっているのではないかと考える。
もともとニコニコ動画というのは、まさに「島宇宙」の典型モデルだと言ってよいはずだ。コメントを生かした弾幕などに象徴される、島宇宙の内部で消費されるコンテンツは、常に私たちを盛り上げ、そしてニコニコをニコニコたらしめてきた。こうした要素を踏まえて、元来ニコニコメドレーが持っている最大の役割というのは、「繋ぎ」「重ね」といった独自の技術を開陳することもそうだが、楽曲を通した(ニコニコ動画の)アーカイブ的側面である、と私は常々考えている。これは例えば『『組曲』ニコニコ動画』のように、投稿から15年以上の年月が経とうとも、当時を振り返る「懐古」という形で恒常的な消費を可能にするものである。
しかし、それが今や著しく困難になった。コンテンツが増えすぎたのだ。同じニコニコ動画という島宇宙にあっても、更にその内部に形成される「界隈」「クラスタ」が星の数ほどあり、宮台~宇野が主張していた以前にも増してここが細分化されているように思う。ちなみに、先述したような『ラブライブ!』やハニワの楽曲を採用すると「は?」というコメントがつく現象も、今や見られなくなった。これはニコニコが生存戦略のために多方面から文化を輸入出する方向に舵を切った結果、島宇宙が増大し(「界隈」の絶対数の増加)、シミュラークルが生じた結果のものであるとも言える。例えるなら、水と油が混ざらなかったところに界面活性剤を入れたら乳化し、全体が混ざって3物質の区別がつかなくなるようなイメージである。そしてこの現象は、もう一歩引いて社会と対照させてみるとより分かりやすい。
例えば、近年の流行語大賞がそうだ。10年前の「今でしょ!」「倍返し」「ダメよ~ダメダメ」などと比べると、ここ数年では野球関連のワードが多くランクインするなど、世間の共通認識は以前よりも通底しているというわけではないことが分かる(今年の「ふてほど」はまた違った意味合いも持ってくるが)。
ニコニコメドレーという観点から「楽曲」にちなんで言えば、『紅白歌合戦』の出場アーティストもそうだろう。ジャニーズという絶対的牙城が失われたことも手伝って、老若男女が知る「国民的アーティスト」「国民的楽曲」というものは今や存在しなくなったと言ってよい。いやさ老若男女が知る楽曲はとっくにないのかもしれないが、「若者世代ならほぼ全員が知っている楽曲」すらないに等しい、というのが現状ではないだろうか。
ニコニコメドレーシリーズには、これと全く同じ現象が起こっている。ニコニコメドレーを見るような視聴者の大半が知る楽曲がなくなり、従来のアーカイブの役割を果たせなくなったのだ。よって、楽曲の「繋ぎ」「重ね」が根幹を成す「構成」という、ニコニコメドレー独自のナラティブを視聴者に訴求させることは以前より非常に困難になった。その3でも述べるが、音MAD合作の単品としてのニコニコメドレーに、合作を見ただけでは観測しにくい小ネタが織り込まれるようになったのも、この困難を知って悪戦苦闘している痕跡だと考えられるのではないだろうか。
ともかく我々は、共通言語を持たなくなったのだ。さながらバベルの塔が崩壊し、神罰によって人々が異なる言語を話すようになってしまったかの如く!
そうして考えていくと、音MADというコンテンツが拡がりを持ったのは逆説的に必然と言える。冒頭でも述べた通り、音MADというコンテンツにはたとえそこに「音」すらなくても、すべてのコンテンツを巻き込む偏在性がある。コンテンツが増えれば増えるほど、音MADは円を広げて勢力を増していき、素材の知名度に問わず新たなテクストが生み出され、やがてはムーブメントを築き上げてゆくようなポテンシャルがある。
昨年「音MAD DREAM MATCH -天-」で公開され、絶賛された『究極ウェカピポレストラン!おディギーのインチキな街 Just imi亭!tionでしょ?』(sm42778473)は、「コンテンツのごった煮」と言っていいような、まさに昨今の音MADムーブメントを象徴するものであった。こうした動画がヒットを飛ばしたことを皮切りに、2024年も『ヒカキンゾーン』(sm43553422)や『せーの!』(sm44065249)など、メガミックスと呼ばれる手法を用いた音MADがヒットを飛ばしている背景がある。
これらの音MADは、島宇宙の中で展開されてきた同一体系の動画群を総括するという点で、元来ニコニコメドレーが果たしていた役割を代替するものでもあった。すなわち、コンテンツが増えすぎて理路整然とした処理が難しくなったことを背景に、アーカイブの役割は音MADという、より前衛的で消費速度が著しく速い方法に取って代わられたと言える。ボカロと音MADの結びつきが強まったことからもわかるように、使用曲や使用素材といったパーツが、ニコニコメドレーで言うところの構成を代替しているのである。
2.閉鎖的コミュニティの行く末
その1では社会学的見地に基づいてかなり俯瞰の色が強い話をしたので、もう少し事態を矮小化しよう。私も所属する島宇宙「ニコニコメドレークラスタ」(以下、「メドクラ」と略記)を軸に据えた話である。また現状のニコニコメドレー、ないし音MADのコンテンツ自体の内容の比較に関しては前章でもある程度触れたため、ここでは制作者やコミュニティにフォーカスした理論を展開していきたい、という狙いもある。
さて、これは同じコミュニティに属する私の主観的な面も含むが、近年メドクラはXなどの主要なプラットフォームに浮上することが少なく、投稿動画の矢面に立つことも少ない。その諸因を問われれば、製作者が社会人となったがゆえの多忙、それに基づく若い後継者の不足なども挙げられるが、最も象徴的なのは界隈内への回帰、要は「引きこもり」的状態であろう。現状、メドクラの多くは2年ほど前に作られたmisskeyの鯖「nicomedkey」に定住、ないしここでニコニコメドレー話題を共有するユーザーが多いのだ。
界隈外のユーザーも歓迎していますが、身内色が強いため少々とっつきにくさはあると思います。それでも興味ある方は是非。
私はこの「身内の行為を、身内で完結させる」という極めて閉鎖的な状態が、決して悪いことだと弾劾するつもりはない。というのは、数年ほど前からX(Twitter)ではニコニコメドレーの話題が殆ど消失していたからである。記憶の限りでは、2018年頃までは「メドレーTL」と呼ばれるニコニコメドレーについての談義を交わすTLが突発的に存在していた。しかし制作者の多忙によるフェードアウトなのか、Xがだんだんと棲みにくい場所になってきたからなのか、しばらくそれが散見されることはなかった。もはやXのような超大型SNSは先に宮台が提唱した「第四空間」としては成立しえず、それどころかフォロワーや「いいね」ボタンといった数値の可視化により、社会の縮図そのものになったと言っても過言ではない。よってメドクラは(メドクラのみならず他の界隈もそうだが)アイデンティティを求むるべく、新たな島宇宙のプラットフォームを求めたのだと言える。
そうした渦中で登場したnicomedkeyの登場により、「メドレーTL」はある程度再燃した。世間と隔絶された内輪的な雰囲気の中でTLが進行するためか、ある程度はメドクラのコミュニケーションの場として、活性化に貢献しているように思う。現在では身内ネタを蔓延らせながら、メドレー談義を交わしつつDTMについてのノウハウ、Q&Aも行き交うなど、Xから移設されたコミュニティとして一定の成果を上げているのは間違いないだろう。これは「身内の行為を、身内で完結させる」ことのメリットと言える。
しかし、やはりこれがコミュニティとして健全かと言われれば、そうではないと否定せざるを得ない。先述したように現状のメドクラは「引きこもり」の状態にある。
この「引きこもり」的な現状に疑問を呈しているメドクラを私は2人知っている。そして、あろうことかこの2人は音MADクラスタとも非常に縁が深い。そして最近になって音MADクラスタに接触し始めた私もまた、メドクラの現状に疑問を抱いている。この音MADクラスタを基点にした問題意識の共通は、たとえ本人たちの自覚がなくとも決して偶然ではないと思う。
その2人の内の1人(まあメスシリンダーって言うんですけど)は、メドクラを指して「限界集落の因習村」であると呟いていた。彼のことだしだいぶ冗談めかしているだろうが、それでも私はこの例えは非常に的を射ているように思う。メドクラという小規模な島宇宙が、nicomedkeyという狭隘なプラットフォームで、そこでしか伝わらないネタを消費して暮らしている。まさにこの「身内の行為を、身内で完結させる」行為は「限界集落の因習村」そのものではないか、と思う。そもそも今回の記事の執筆動機は彼の発言によるものであった。
土台零細なコミュニティである以上それは仕方がないことかもしれないが、しかしやはりこのままでは滅びゆく運命にあるのは想像に難くない。むしろ零細なコミュニティだからこそ、「は?」というコメントがつくリスクを承知で島宇宙同士との接触(外部とのコミュニケーション)を試みることしか、メドクラに存続の道はないのかもしれない。
このような界隈批判と問題提起だけでは当て逃げに等しいので、その2の本論として、「島宇宙同士の接触」の好例を、音MADクラスタの近年の動向から学んでいきたい。
音MADというコンテンツが、各所で流行るあらゆるカルチャーをも巻き込み、そこからまた新たなテクストを生み出すのはその1でも述べた通りである。特に近年その代表例として挙げられるのが、VOCALOID界隈との強い結びつきだろう。一昔前までは素材の選曲としてはあまり使われることのなかったボカロ楽曲は、ここ数年で急速に主流となった。そして音MAD界隈がボカロ界隈に接触しただけではなく、反対にボカロ界隈が音MAD界隈に接近するような事例さえ見られる。さらに原口沙輔『人マニア』のように、非常に強い影響力を持ったボカロPが、音MADをサンプリングした楽曲を発表することすらある。
この音MADとボカロの接近については、自身も音MAD作者であるLixyが『ボーカロイド文化の現在地2』の中でピノキオピー『神っぽいな』の視点を軸にしつついくらか述べている*4。恐らく本論は音MADが現在に至るパラダイムシフトを起こして以降初のまともな活字評論だと思われ、貴重なものとなるだろう(そもそもそれ以前の音MADに関してもまともな評論を見たことがないのは遺憾。ゆえに私もこういうものが出せるプラットフォームと交流が欲しいのだが……)。
また、既に公共メディアや地上波に幾度となく進出しているボカロと違い、音MADは著作権の観点からアングラを義務付けられた存在であるはずにもかかわらず、実に絶妙なバランスを保って公に介入している点も興味深い。むしろその「著作権の侵害」という音MAD最大の瑕疵であり不完全性こそが、消費者の「アングラに興じる」というスノビズムを刺激し、コミュニケーションを発生させ、魅力を底上げしているようにすら見える。Neroの『『旅人』 -The Road Not Taken-』や、わたぴーの『男船』といった、近年のムーブメントを象徴づける「公式音MAD」とも言える作品群は、サブカルチャーとメインカルチャー、消費者と生産者の境界線が曖昧になったことをインターメディア性の中で印象付けた。その上で音MADの不完全性への回答として、「公式」という大義名分を得て、新たな視座から音MADを捉えた事例であると言える。至極簡潔に言い表せば消費者が「公式の動画なのにアングラな音MADと音MAD作者使ってるのスゲエ!」という認識を持つ、ということだ。音MADが基本的にはアングラなものであるという一定の共通認識があるからこそ、このような関係性は成り立っているのだと言えよう。
こうした音MAD並びに音MADクラスタの急速な発展の背景には、当たり前の話ではあるが、Xを中心とした公共性の高いプラットフォームで作品を発表・宣伝することによる拡散力の影響もまた大きい。
現代インターネットというのはいつバズるか、いつ自分が時の人となるのか全くもって予想がつかない。しかし、「限界集落の因習村」ではそのチャンスすら得られない。今一度メドクラは他の島宇宙との結びつきを強め、「障子を開けてみよ、外は広いぞ」という言葉を思い出す必要があるのだ。
3.音MADの「副産物」と化したニコニコメドレー
最後に要因として述べるのは、音MAD合作と、それに用いられるニコニコメドレーの話である。その1,2でもニコニコメドレーと音MADをある程度比較させつつ述べてきたが、ここではより直接的に関わる形となる。
界隈の人間であれば、大体何が言いたいのかはこの時点である程度理解できるかもしれないが、念のためその成り行きについて説明する。これまで何度も述べてきたように、ここ数年で音MADは新たな存在意義の獲得により急速に発展した。その結果音MAD作者の母数も増え、彼らが結集して合作を催すことも多くなった。そして合作ということは長尺の素材となる楽曲が必要になるだろうから、そのためにニコニコメドレーが使用される。突発的、あるいはテーマのないものであれば、既存の、つまり音MAD合作に使用されることを想定していなかったニコニコメドレーが用いられることが多い。ここではそれを「単一のニコニコメドレー」と呼称する。
他方で、一から下地を作り上げてあるテーマに沿った音MAD合作を作ろうとするとき、そのテーマに寄り添うために書き下ろしのニコニコメドレーが使われることも多い。このようにして生まれたメドレーを、「副次的なニコニコメドレー」と呼称しよう。もっとも、こうした動きは10年以上前から見られ、レスリングシリーズの『本格的男尻祭』や『チャージマン研!』のものは定番となっている。
にもかかわらず、ここでわざわざこのような区分けをするのは何故か。ここがその3のキモである。ずばり、現状のニコニコメドレーは、多くが音MADの文脈に回収されてしまっているからだ。そしてそこには、明らかに単一のニコニコメドレーに比べて、副次的なニコニコメドレーの方がクオリティが高いという実情もある。技術のある作者が、規模の大きい音MAD界隈と関わりを持つことにより、副次的なニコニコメドレーの方へと靡いているように見える。
その1でも述べたことを繰り返そう。ニコニコメドレーが持っている最大の役割というのは、楽曲を通したアーカイブ的側面である。しかし、音MAD合作という現在進行形のファクターが入ると、先述の通り音MADの文脈に回収され、支配下に置かれてしまう。ゆえに副次的なニコニコメドレーはいくらクオリティが高かろうとも、音MADの「副産物」でしかないのだ。
この辺面倒な内容だから飛ばしてもいいよ
さて、ここでまたポストモダン論に立ち返ってしまって恐縮だが、この音MAD合作と副次的なニコニコメドレーの関係性は、その1でも名前を出した宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』において展開した「データベース消費」批判に似ているように思う。データベース消費というのは東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001)の中で提唱した概念で、今もなおサブカル評論に強い影響を与え続けている。簡単に言ってしまえば、一次創作である物語そのものではなく、物語の内部からキャラクターを筆頭としたパーツを抽出し、これらを単一的に消費する態度のことである。恐らくは最も分かりやすい例えが二次創作としての成年向け同人誌だろう。美少女が竿役に凌辱されるさまにオタクが欲情するのは、物語の背景を伴わずキャラクターというパーツを取り出して消費しているからである(私にはよくわからないが)。東はこうしたパーツをデータベースに例え、その上で物語から離れて独立していくものだとした*5。
しかし宇野はこの東の意見に反発し、キャラクターはあくまで物語に隷属するものであるとした*6。むしろ二次創作的なキャラクターの扱われ方こそが、物語に隷属した一次的な、つまり原義のキャラクターを徹底的に承認し、共同性の下に再強化するものであるのだという。
どういうことだろうか。閲覧者にも伝わるような例えで私なりに説明しよう。例えばゲーム『ブルーアーカイブ』に登場する天童アリスは、原作ではガラクタの中から発見され、ゲーム部に人間として育てられた天真爛漫なアンドロイドの少女として描かれる。しかし二次創作においては(特にネット上では)、アリスのゲーム脳的挙動が拡張・曲解され、淫夢語録を喋るキャラとして(最悪)ミーム化しているという側面がある。しかもただ淫夢厨なだけではなく、そこかしこで場を弁えず語録を言いまくってモモイに窘められ、その上他のキャラクターが淫夢語録に近いものを喋ろうものなら「アリスこれ知ってます!」と反応するなど、いわゆる「ホモガキ」として描かれている(バカタレすぎ)。
そしてそれを用いた音MAD合作もある(しかもめちゃくちゃ伸びてる)
この「ホモガキとしてミーム化した二次創作のアリス」は、もはや原作のテクストから完全に逸脱したものとなっており、一見東の提唱したデータベース消費に沿ったものに見える。しかし、「二次創作のアリス」が見せるこの「キャラ崩壊」は、「原作のアリス」の天真爛漫な少女像とのギャップとして存在するものであり、オタクが消費しているのは実のところそのギャップなのである。ゆえに、キャラクターは一次創作(物語)とそれが持つ共同性(コミュニティ)から完全に独立することはできない。むしろ、そのギャップの原点になるものとして物語は再強化される。これが宇野の論である。
この主張については、特に近年多いミーム(二次創作)だけ知っていて原作(一次創作)は知らない、といったような消費者はどうなのかという観点が欠落しており何とも言えないところではある(そもそも2008年の著書なので私の情報がアップデートされていないだけかもしれないが)。しかし、少なくともこの関係性は音MAD合作に使用される副次的なニコニコメドレーが、音MADに隷属しているという関係を表すのには有用であると思う。副次的なニコニコメドレーがキャラクターであれば、音MADは物語である。副次的なニコニコメドレーをウェルメイドな単品として聴いても、それは音MAD合作という原点を指し示すパーツとして再強化される。第一、当然先に公開されるのは音MADの方なのだから、単品を聴いても音MAD合作の一部という意識が芽生えるのは不可避である。
この辺面倒な内容だから飛ばしてもいいよゾーン 終わり
率直に言おう。これらを踏まえて、副次的なニコニコメドレーが独立した作品として見られることは不可能である。どのような処置を施そうとも、音MADというファクターを拭い去ることはできない。よって従来のアーカイブ的ニコニコメドレーを復活させ、新たな物語を創造することができるのは、単一のニコニコメドレーのみが成しえる技である。
しかし、音MADの支配に対して、副次的なニコニコメドレーが「抵抗」することは可能であると私は考えている。それは、音MADには表現できない、ニコニコメドレーならではの要素を散りばめることだ。ここで、「繋ぎ」「重ね」といったタームが生きてくる。直近でそれを意識したものとして白眉であると感じたのが、『ジャンプ合作』(2024)(sm44284322)の単品(sm44288587)である。
本作を音MADへの「抵抗」だと感じる最大の点は、14分の動画に対し総曲数100という、副次的なニコニコメドレーらしからぬ密度である。そしてそれに呼応するように、単品で聴かなければ大半が気づくことはできないであろう楽曲がほぼ毎パート散りばめられており、さらに最終盤にはカオスゾーン(3-4曲の重ねが短いスパンで流れ続ける仕掛け)までもが用意されている。『週刊少年ジャンプ』の入りきらなかった有名作品をいっぺんに紹介したいという音MAD側の意図もあるだろうが、こうした試みは副次的なニコニコメドレーの中では非常に珍しい。このようにニコニコメドレーにしかできない要素を前面に押し出し、単品を視聴者に聴かせるように仕向ける試みは非常に有意義なものであると言えよう。
さて、誤解のないよう念のために述べておくが、私は、副次的なニコニコメドレーの在り方、そしてそれが主流になっている現状を批判するつもりは全くない。時代に合わせてコンテンツはサバイバルを懸けてやり方を変えていくべきだし、副次的なニコニコメドレーはその2でも述べたような他の島宇宙との接触において、音MADという島宇宙との交信に成功している。また「副産物」「隷属」などという上下関係を示唆する露悪的な言葉を使ってこそいるが、音MAD合作は音MADとニコニコメドレーとの共存をある程度可能にし、よりウェルメイドなものに昇華させているのは間違いない。
しかしこのままでは、ニコニコメドレーの専売特許とすら言っていいものであったアーカイブ的側面が完全に立ち消えてしまう。その状況を是としないのは、他ならぬメドクラ自身ではないだろうか。少なくとも私は、そう思っている。ゆえに、私なりの打開策を講じていきたい。それが最後に記すことだ。
ニコニコメドレーシリーズの血を絶やさないために
ここまで、ニコニコメドレーシリーズの衰退要因を、音MADのムーブメントを主たる比較対象として参照しながら、社会背景、作風、コミュニティなど様々な観点から述べてきた。最後はそれらを踏まえた上で、今後ニコニコメドレーが(より正確に言えば「単一のニコニコメドレー」が)存在意義を再燃させ、持続していくにはどのような行動が必要なのか、ということについて述べていきたい。既にここまでもそのヒントは幾つか置いてきたはずだ。そしてここではより具体的なものを、改めて「ポストモダンの社会背景」と「ニコニコメドレーと音MADの比較」から、2つに分けて挙げる。
生憎私はDTMもできず、大した個人作も持たないため、傍観者であることが大半を占める。ゆえに、こうして少しでも界隈の存続のためにできることはないかと批評家気取りで筆を執った。それが果たして有意義なものであったかは、これを閲覧頂いている、ニコニコメドレーに興味を持っているあなた次第である。どうか、この場を借りてひとえによろしくお願い申し上げる。
1.どのような投稿イベントがニコニコメドレーシリーズを再燃させるか -ニコニコメドレーと音MADの関係性から-
音MADにさまざまな合作や「晒し」と呼ばれる短期集中投稿イベント(いわゆる「投稿祭」)があるように、ニコニコメドレーにもそういった催しは存在する。例えば、楽曲同士を高頻度で切り替えることに主体を置いたニコニコメドレーシリーズを「駆け抜けるメドレー」などと呼称するが、この作風を利用した合作は『駆け抜けるメドレーコラボレーション』と称され、2012年から述べ10年以上に渡って定期開催されるロングランイベントとなっている。これは紛れもなく音MADにはできない、ニコニコメドレーだけが表現可能な在り方である。こういったところにもニコニコメドレーが存在意義を保持するヒントはあるが、ここではこれからも持続させていくためには何が必要か、というところが焦点となってくる。幸いにして例に挙げた『駆け抜けるメドレーコラボレーション』はこれまで同一の投稿者によって主催されているが、ゆくゆくは「世代交代」が必要となってくる。その時に、新たな主催者が多くのユーザーを集められるような力量を持たなければならない。これには単純にニコニコメドレー作者としての実績ももちろんそうだが、運営ができるだけのフィクサーとしての能力も必要となってくるだろう。
現在最も伸びているのはこの『駆け抜けるメドレーコラボレーションⅣ COURSE:RED』で、10万再生を突破している。
また投稿イベントで言えば、2019年には私も参加した2人1組となって共作を投稿し合う「ニコメドドリーム"じゃない"マッチ」(以下「ニコメドDJM」と表記)が、2022年には『M-1グランプリ』に準えて4分のニコニコメドレーの中から頂点を競う「Med-1グランプリ」が開催されている。こうした界隈を越境し、参加者ならびに関与者が多い大規模なイベントも隔年で行われている。
こうしたイベントというのは、コストが高いぶん注目度も比例しているため、マンネリへの打開策になりえる。また、その多くは音MAD界隈のイベントを模倣していることにも触れておきたい。例えば「ニコメドDJM」は、同様の形式で2018年に行われた「音MAD DREAM MATCH」を模倣している。この企画は2023年に第二弾となる「天」が行われ、その1でも述べた『究極ウェカピポレストラン!』など、現在の音MAD人気に至るパラダイムシフトを起こすほどの数多くの傑作を生みだすこととなる。
加えて、企画が進行するライブ感というものは他では味わえないものであるから、投稿イベントを積極的に開催していくことが有意義であるのは間違いない。しかし、どうしてもイベントというのは一過性のものであるがゆえに、ニコニコメドレーの相対的な定着には至らないことが大半でないかと思う。『『組曲』ニコニコ動画』のように、長年アーカイブとして機能する(=繰り返し再生される)ニコニコメドレーを生み出すには、熱しやすく冷めやすいのでは難しい。実際のところ「ニコメドDJM」「Med-1グランプリ」の投稿作品は、界隈内からは高い評価を受けていながらも、再生数は多くても2,3万再生に留まっており、界隈外には届きづらいというのが現状である。よって我々はまず、ニコニコメドレー拡散のために足元から固めていく必要がある。
つまり、投稿イベントの活性化のために外部からもっとユーザーを取り入れるべき、ということである。私は衰退要因のその2でニコメド界隈の「引きこもり」的、あるいは「限界集落の因習村」的な現状を挙げたが、それはこうした行為ができなくなるからである。
その打開策としてヒントになるものは、既に存在する。それは、つい最近開催された「ニコニコメドレースタートダッシュ」企画である。こちらも「ニコメドDJM」と同様、音MAD界隈の企画「音MADスタートダッシュ」を模倣している。すなわち、ニコニコメドレーを作ったことがない人のための投稿イベントとして機能している。こうした、ニコニコメドレー作者のための投稿イベントではなく、外部の新規参入者を取り込むための投稿イベントというのは、ゆくゆくの大規模投稿イベントとして、ひいてはニコニコメドレーそのものを過熱させるための必要経費であると考えている。その上で、投稿イベントを一過性のものとせず、ユーザーのメドクラへの定着を狙っていかなければならない。
そして、「ニコニコメドレースタートダッシュ」の投稿者は、大半が音MAD作者であり、この辺りからも改めてニコニコメドレーと音MADの結びつきが強いことが伺える。思えば「ニコメドDJM」も「Med-1グランプリ」も、PV作成者や絵師、そしてゲスト審査員など、ニコニコメドレーそのものには関わらない形で音MAD作者が数多く関与していた。
しかし、私は思う。どうせなら音MAD作者も巻き込んでニコニコメドレーを作ればいいのではないか、と。「ニコニコメドレースタートダッシュ」の投稿者の大半が音MAD作者だったことは、私のこの要求を大いに裏付けるものであるはずだ。せっかくトレンドになっている音MADとその界隈と深く交わっているのならば、ニコニコメドレーの制作を通してそれを利用しない手立てはないのではないか。私のようにDTMができない人間でも、界隈の力を借りてニコニコメドレーを作ることはできるのだから。界隈拡大のチャンスは、目の前に転がっていたのである。
よって音MAD合作のサプライヤーになるばかりではない、相互扶助の精神が今のメドクラには必要である。その方が島宇宙同士の関係性においても、作者の精神面においてもより健全であろう。それこそが双方の界隈を発展させ、大規模なイベントを円滑に進行可能にし、ゆくゆくはニコニコメドレーシリーズを再燃させることにも繋がっていくはずであろう。
2.「祭り」に沿うことの重要性 -社会学的見地から-
2つ目は既に数年前からメドクラが無意識にある程度行っていることでもある、「ニコニコ動画の節目にニコニコメドレーを投稿する」という行為についてである。私はこれを非常に有用なものだと捉えているので、その構造をここで改めて提示し、再強化することによって、作者自身の自覚を促しておきたい。
私はその1でニコニコメドレー衰退の一因としてコンテンツの飽和を述べた。それはユーザーが取る選択肢が以前にも増して膨大になった結果、ニコニコ動画の中ですら島宇宙が多面化し、ニコニコメドレーの消費者が共通して認知している楽曲が減少の一途を辿っている点に起因しているとした。
しかしそんな現在でも、ニコニコ動画において共通して盛り上がるものとして不変のものが存在する。それが、インターネットでたびたび起こる「祭り」と称されるムーブメントである。「祭り」が起こった時、ニコニコ動画という共通項に括られた偏在する島宇宙同士は、一時的にすべての門戸が開放される。島宇宙を守る保守的な門番は、この時ばかりは不在になる。それが何故かと問われれば、「祭り」を引き起こすコンテンツそのものに興じるのではなく、コミュニケーションの手段として「祭り」を利用していることにある。
例えば、谷村要は2002年に2ちゃんねるで起こった「吉野家祭り」に対し、2006年以降にニコニコ動画でも巻き起こった「『ハレ晴レユカイ』ダンス祭り」を引き合いに出し、「『ネタ』を作り出すための『祭り』というある種の逆転現象」を指摘する*7。「吉野家祭り」は件の「吉野家コピペ」を起点にして、吉野家で一斉に「大盛ネギダクギョク」を頼むという「目的」が存在しており、これはいわゆる「オフ会」のようなものではなく、むしろ現実空間での「馴れ合い」は好ましからざるものであった。では何をもって「祭り」に興じたのかと言えば、「大盛ネギダクギョク」を食べた体験談を2ちゃんねるに綴り、他のユーザーが同様の報告をしているさまを見て盛り上がることである。ここにはインターネットが持つ匿名としての掲示板という環境のみが所在し、そこにユーザー間のネットワークが生じることはない。
ところが、本来「『ハレ晴レユカイ』をのCD売り上げを1位にしよう」という目的の下で巻き起こった「『ハレ晴レユカイ』ダンス祭り」は、結果として「オフ会」のようにユーザー同士のコミュニケーションを目的として成立するところとなり、手段と目的は逆転する。結果、本来特別なイベントとして機能していたはずの「祭り」は「日常化」し、もはや原義と正反対の性質を持つ。これが先述したような逆転現象の内実であり、谷村はこのコミュニケーションの形態を「自己目的化」であるとした。わかりやすく言い換えれば、「自己顕示欲のために『祭り』に参加している」ということにもなろう。
そしてこの「自己目的化」は、2020年代を迎えた現在ではより加速しているのではないかと思う。それどころか、「吉野家で『大盛ネギダクギョク』を頼む」「『ハレ晴レユカイ』をのCD売り上げを1位にする」などといった、原義としての「目的」すら欠落しているというケースも多い。*8。
例えば2022年に投稿された音MAD合作『おとわっか』(sm40434189、現在はsm40594461)は、インターネットミームを席巻したにもかかわらず、その動画の意味するところが何であるかと問われて返答できる視聴者はまずいないであろう。作中の登場人物に「ティーダのチンポ気持ちよすぎだろ!」と連呼させることによって『ファイナルファンタジーⅩ』の名誉を傷つけ、スクウェア・エニックスに業務妨害を行うことが目的であろうはずもないのだから。つまり、『おとわっか』に意味など初めから存在しないのである。
では何のために『おとわっか』が投稿されたのかということを考えれば、投稿者が身内(音MAD界隈)の投稿者同士、あるいは視聴者に向けてコミュニケーションを行うための代替ツールとしてではないかと考えるのが自然だろう。すなわち、やはり自己目的化のためということになる。そして何より、ニコニコ動画という媒体の特徴として画面の上を流れるコメントが存在し、これが自己目的化を補助する要素として極めて機能的に成立している。こういった要素の積み重ねが、これまでのニコニコ動画のカルチャーを作ってきたのだ。
つまり、先述した「島宇宙同士の門戸が開放される」という例えは、動画を通してある島宇宙の中のカルチャーが他へ流入することにより、一時的な共通言語を獲得することができることを意味する。こうした要素の極北が、「ティーダのチンポ気持ちよすぎだろ!」のようなインターネットミームとも言えよう。
さて、ここでニコニコメドレーに話を戻そう。判を押したように繰り返すが、ニコニコメドレー最大の役割は「楽曲を通したアーカイブ的側面」にある。それは、ここまで提示した「自己目的化」の行く末のような、島宇宙同士が交信した痕跡を拾い集めることを意味する。そのように考えていくと、アーカイブとしてのニコニコメドレーというのは、先の「『ハレ晴レユカイ』ダンス祭り」や『おとわっか』のような「自己目的化」とは一線を画するものである。何故なら、ニコニコメドレーには「節目を祝う」というれっきとした非コミュニケーションの目的があるからだ。要するにこれは、「吉野家祭り」と同系統のものなのである。
これを裏付けるものとして、鈴木謙介は「吉野家祭り」におけるある行為に着目している*9。それが、「吉野家祭り」の参加者が、「祭り」に参加した証として領収書を撮影し、スレッドにアップロードするというものだ。これは、「祭り」に参加したという物的証拠を提示すると同時に、「『集団として振り返る』ための『メモリアル』」と言えるものであったのだという。この特徴は、アーカイブとしての単一のニコニコメドレーの性質と、一言一句違わず符合している。ニコニコメドレーは、「吉野家祭り」の領収書と同じ役割を果たしていたのだ。
つまり、ニコニコメドレーは「『ハレ晴レユカイ』ダンス祭り」的なコミュニケーションを肯定する「祭り」を、楽曲というフィルターを通じて拾い集め、再構成する。その上で、「吉野家祭り」的なコミュニケーションを伴わない「祭り」の下に公開するという、表層化されない入れ子構造を呈している。同じ「祭り」と呼称されているものにもかかわらず、そこには二元的な要素が存在している、ということになる。
この構造が明らかになったところで、改めて直近の「ニコニコメドレーシリーズ殿堂入り」を達成した単一のニコニコメドレーについて振り返ってみると、節目に投稿されたものが半数以上を占めていることに気づくのではないだろうか。ニコニコ動画10周年を記念した『ニコニコ動画十年祭』(2016)(sm30214773)を皮切りに、この傾向はより一層強くなったと見える。初音ミク10周年を記念した『ミクミク動画葱祭』(2017)(sm31840798)、新バージョン「ニコニコ動画(く)」の実装を記念した『新niconico(く)みきょく』(2018)(sm33435124)、『THE IDOLM@STER』15周年を記念した『駆け抜けるアイマスメドレー』(2021)(sm38451980)、ニコニコ動画15周年を記念した『ニコニコ十五周年漂流記』(2021)(sm39736300)などが代表的だろう。これらの動画のタイトルには、一部に「祭」という文字が入っていることも、これまで参照してきたものと符合させれば決して偶然ではないはずだ。
そのような積もる歴史の中で、今年はニコニコ動画にとって受難の年となった。ハッカーによるKADOKAWAへのサイバー攻撃により、6月から8月にかけて2か月余りもニコニコ動画が閲覧できなくなる背景があった。しかし、あたかも災害から復興する街が注目されるように、ニコニコ動画は8月5日の復旧直後に祭りを引き起こした。とりわけ高い評価を受けたのが、ニコニコ動画で活動する百花 繚乱が人脈をフル活用して投稿された、『レッツゴー!陰陽師 古伝説コラボ』(sm43891948)ではないだろうか。かつてニコニコ動画で活動し現在はプロとなったユーザーも含む、豪華投稿者のコラボは視聴者に大きく訴求し、現在「ニコニコ動画の表彰式」とも言える「ニコニコ動画アワード2024」では最終投票にも残っている(私も投票した)。
そしてニコニコメドレーにもまた、その流れが押し寄せた。それが『ニコニコ動画復活祭』(sm43887914)である。当作は冒頭にも取り上げた通り、ここ3年間単一のニコニコメドレーが伸びなかったという状況であったにもかかわらず殿堂入りを成し遂げた。それも動画の長さで言えば僅か5分半ほどのものであり、これまでに挙げてきた殿堂入りのニコニコメドレーの中でも圧倒的に短く、極めて異例と言える。
ここに挙げた2つの動画は、東日本大震災で津波に浚われても残った「奇跡の一本松」のように、インターネット上で復興の象徴としての「祭り」が巻き起こった事例と言えよう。「ニコニコ動画が閲覧できない」という前代未聞の事態は、一過性のものではあるが却ってニコニコ動画を活性化させた。この事象は、メドクラにとっては今後の前向きな活動を予感させるヒントにもなったのではないかと思う。そしてその背景にあるのは、「祭り」というインターネットを最大限活用したムーブメントと、「節目」というニコニコ動画がどのような変容を遂げても平等に訪れるイベントの発生によるものである。これらの要素が、常にニコニコメドレーを彩る要素として機能してきた。ニコニコメドレー作者たちは、これからも「祭り」の発生に着目し、「節目」と共にニコニコ動画を歩み、ニコニコメドレーをアーカイブとして歴史に刻み続けていくべきである。その火を決して、絶やしてはならないのだ。
おわりに
ここまで、「ポストモダンの社会背景」と「ニコニコメドレーと音MADの比較」という2つの観点から、ニコニコメドレーシリーズの衰退要因、そして再興のために何が必要かということを述べてきた。
今回は便宜的にその系譜から「ポストモダン」という語を用いているが、この用語がオタクカルチャーにおいて多用された2000年代と今とでは、それらを取り巻く環境は全く異なっている。そして何より、東浩紀や宇野常寛といった2000年代以降に大きな影響力を持っていた批評家は、2020年代のサブカルチャー批評には存在しない。これは、ここまで何度も述べてきたように、コンテンツが増えすぎたがゆえの弊害であるとも言える。この欠陥を補うには、本論で折に触れた音MADのように、これまで論壇に上がることのなかったムーブメントにも着目していく必要があるだろう。
そしてニコニコメドレーと音MADの界隈論については、副次的なニコニコメドレーと音MAD合作との適切な形での架橋が目下の課題になってくる。現状私の知る限りでは、ニコニコメドレー作者は黒子に徹しており、表に出ることは少ない。ここに、コミュニケーションの断絶があるように思う。より良い作品を作るために、音MAD作者とニコニコメドレー作者の間で温度差の乖離が生じないために、あくまで対等な関係で、互いに積極的なコミュニケーションを取ることが要求されるだろう。
本記事は当初、簡潔な要点のみで済ませるはずだったのだが、気まぐれに書いていくうちに結果的に2万文字以上に膨れ上がってしまった。それに加えて閲覧者のことを考えずにアカデミックな内容を多分に織り込み、冗長な記事となってしまったことをお詫び申し上げるとともに、ここまで読んで頂いたことに感謝申し上げたい。
私は動画制作者としての才がないゆえに、数値化が可視化される現代インターネットにおいて、発言が拡散されるプラットフォームを持たない。ゆえにこの記事が双方の界隈の目に留まって頂けるのかは定かではない。それでも、純粋にコンテンツへの熱意からこうして筆を執った。その気概が伝わるのであれば、これ以上幸せなことはない。ニコニコメドレーシリーズ、音MAD、そしてニコニコ動画の発展を心から願って、今回はここで筆を置くことにする。
【最後にちょっとだけ宣伝】
現状投稿日未定ですが、来年1月以降に構成を担当した共作が出るはずです。こんな記事を書いておいてなんですがニコニコ動画の要素は少ないメドレーです。よろしくお願いします。
参考文献
岩田和男/武田美保子/武田悠一(編)『アダプテーションとは何か : 文学/映画批評の理論と実践』(2017年) 世織書房
さやわか「愛について──符合の現代文化論(9)「キャラクター化の暴力」の時代
(2)」(2021年) (https://webgenron.com/articles/gb062_04)
Lixy『ボーカロイド文化の現在地2』「『神っぽいな』のパースペクティブ——二次創作としての音MADから——」(2024年) (https://asyncvoice.booth.pm/items/6306695)
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(2001年) 講談社現代新書
谷村要「自己目的化するインターネットの「祭り」 : 「吉野家祭り」と「『ハレ晴レユカイ』ダンス祭り」の比較から」 (2008年) (https://kwansei.repo.nii.ac.jp/records/17253)
鈴木謙介『ウェブ社会の思想―<偏在する私>をどう生きるか』 (2007年) NHKブックス
その他、文中に示した動画についてはリンク先を参照するものとする。
*1:『制服少女達の選択』 p245
*3:https://webgenron.com/articles/gb062_04
*4:https://asyncvoice.booth.pm/items/6306695 コミュ障過ぎて即売会とか行けず通販でまだ読めていない(´・ω・`)
*5:『動物化するポストモダン』 p79
*7:https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845763758889600
*8:なお目的が存在する近年の「祭り」のケースとしては、例えばこのようなものが挙げられる。ゲーム『ポケットモンスター スカーレット・バイオレット』に登場する幻のポケモン・メロエッタは、その入手方法がリーカーですら気づくことのできない「隠し要素」であった。それを発見したのが掲示板「ポケモンBBS」の住民たちであり、当初BBSの内部で大きな盛り上がりを見せた。「BBSの内部だけ」という限定に、ここに挙げている「吉野家祭り」との類似点を指摘できよう。ちなみに私もそれに関わった一人であるため、ことの顛末はここに記している。ちょうどこの記事の投稿日である12月16日が1周年のため、よければ是非。 https://note.com/jury_mine/n/na1ae556c66ac
*9:『ウェブ社会の思想―<偏在する私>をどう生きるか』 p162