ハテナのごとく!

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涼宮ハルヒと長門有希の「人気」について非リアルタイムの未成年が語ってみる

※2020年4月17日に書いて、燃えたもの

 

まず最初に言っておくが、タイトルにある通りこれを書いているのは当時の1期『涼宮ハルヒの憂鬱』をリアルタイムで視聴していない齢18の人間だ。一応後々アニメ版の全てや文庫本もすべて視聴・読破しているが、オタク文化に触れたのは2008年ころからとなる(それでも早い方だとは思うが)。だから、当時の情報は全てかつて電子網に流れた第三者から得た記憶であり、最もらしいことを言っていても実は中身はないものかもしれない。それを心して頂きたい。

僕がこんなタイトルでブログを書こうと思ったことの発端は、Twitterで物議を醸したあるツイートに由来する。それがこちらだ。


何故物議を醸したかは恐らく当時を知る人ならお分かりだろう。
最近のオタクは長門みたいな便利なだけの女に逃げるようになってきた」というような扇情的・老害的な発言だけならまだしも、まるで「当時の長門は人気がなかった」と受け取られかねない含蓄があるからだ。曲解的ではあるかもしれないが、まずこの点に関しては明らかに嘘であると僕は思う。00年代半ばから定着し始めた「○○は俺の嫁」というオタク・スラング長門有希に象徴されるように、明らかに人気がないわけではなく、寧ろ非常にあったはずだ。加えて2010年公開の映画『涼宮ハルヒの消失』がそれを確固不動たらしめた。所謂「消失時空」の「感情がある長門有希」に衝撃を受けた人は多いだろう。

そう言った訳で、まず「当時の長門は人気がなかった」ということは有り得ない。一応名誉保持のために氏のカバーリングも載せておくが。


現在の萌えのトレンドについての話も散見されるが、それについては以前に書いた「至高の萌え属性ツンデレ」は何故見かけなくなってしまったのか?」(https://ch.nicovideo.jp/jury/blomaga/ar1799053)で触れているのでここでは言わない。あまり濃い内容を書いたつもりもないが、この記事は何故か1万PVを突破していた。痛み入る。

とまあ、これは前座である。
問題は先程のツイートに「当時涼宮ハルヒは人気がなかった」という反論が相次いだことである。
これに関してまず定義づけをしておきたいのが、「人気」の如何である。この反論の場合の人気のニュアンスというのは、支持を集めたというよりは、萌えとして成立していたかどうかということではないかと思う。この人気のことを便宜的に「オタク人気」と名付けるが、まずその辺を履き違えているとどうしようもないのではないか。
その場合、オタク人気ではない涼宮ハルヒの人気がなかったとはまず考えられないと思う。これだけ深夜アニメを膾炙しオタク界隈を席巻した『涼宮ハルヒの憂鬱』の顔であるメインヒロインがキャラとしての人気がなかったわけがないだろう。実際、当時の雑誌人気投票でもトップクラスに位置していたし、キャラソンだって聴かれていたし、件のスキャンダルまでは中の人・平野綾の人気だってうなぎ上りになっていた。いわばストーリーの中枢神経であるハルヒなしでいられるわけがないのだから、その時点で通常の意味での人気はあるに決まっているのである。涼宮ハルヒがかような性格でなければ物語は成立しないのだから。

だから、結局のところ「オタク人気」が焦点ではないのだろうか。その場合、確かに涼宮ハルヒが他キャラに比べてなかったのかもしれない。
というのも、『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品はオタクへの影響が巨大すぎて、涼宮ハルヒ長門有希朝比奈みくるのヒロインのみならず、メインキャラではない朝倉涼子鶴屋さんなどもアニメを通じて絶大な人気を誇ったわけだし、それはアニメでは未出の佐々木だったり、古泉・キョンの男子にまで至る。それぞれ突出した個性があって、更にその上に涼宮ハルヒを中心とした舞台装置が出来上がっていくから、「好きになれるキャラ」が多すぎるのだ。こういった観点から涼宮ハルヒが舞台の中心としての人気のみであって、当時の萌えを主体に置いたオタク人気がなかったのではないかと思うのである。

そして、この「オタク人気」において欠かせない『涼宮ハルヒの憂鬱』のキャラといえば、やはり長門有希だろう。その証拠は先述した通り、ネットスラングにも表れているし、特に『消失』公開後から顕著になったと思う。
彼女の人気の理由の一つとして、「セカイ系」に登場する「綾波系」のヒロインということが挙げられると思う。「セカイ系」という言葉は2002年にぷるにえ氏が個人ブログで運営していたものが初出なのもあって結局明確な基準は曖昧なのだが、『涼宮ハルヒの憂鬱』がそれに当たることについては異論はないだろう。同様に長門有希が「綾波系」というのも、そうそう異論はないものと思われる。「短髪」「口数が少ない無表情」という同一点はよく引き合いに出されることは周知の通り。
セカイ系」「綾波系」という2つの特徴は、『新世紀エヴァンゲリオン』の影響が強い。セカイ系は当初エヴァを基準にして設けられていたし、綾波系についてはネーミングの通りであるが、正直先に挙げた「短髪」「口数が少ない無表情」以外は原型から乖離していっているような気もする。が、それについて話すとまた長くなりそうなので省略。

こうしたオタクに受けやすい2つの特徴に加え、長門有希には「主人公を守る圧倒的な強さ」がある。半ばデウスエクスマキナと言っても過言ではないほどにだ。彼女は終始一貫してキョンを守るが、こうした「長門有希に守られたい」という感情を昇華(或いは逆に凝華なのかもしれないが)したものが「萌え」となり、オタク人気が拡大した。
そして極めつけが『消失』である。今までその何でもありの強さでキョンや周囲を守り続け、ハルヒの観測をしてきた長門有希は、その実「普通の女の子」になることを望んでいた。そして「消失時空」で見せた表情のある長門。このオキテ破りのシナリオが、更にオタクの心をギャップ萌えとして揺さぶり、オタク人気の地位を盤石にしたのではないだろうか?


さて、かように涼宮ハルヒ長門有希について小規模ながら書いたわけだが、最後に作品愛について語りたい。僕は先述した「セカイ系」のようなボーイ・ミーツ・ガールのジュブナイルノベルが好きなのだが、なるべく中身は明るくあってほしいと思っている(勿論『イリヤの空、UFOの夏』のようなポストアポカリプスを眼前に構えるようなものも好きだが)。そのような点において、明るい涼宮ハルヒというメインヒロインを軸に、周囲が引っ張られていくという展開はまさしくジャスト・フィットと言っていい。だからこそ、余すことなくこの作品を好きでありたいのだ。そういうこともあって、今回のような内容を書いたのである。
正直御覧のように一貫性がなく、まとめきれてもいないし、自分ではまだ語り切れてもいないので、意見や反論を歓迎する。宜しく。

ライトノベルの「長いタイトル」について考えてみる 他

※2019年9月18日に書いたもの

 

近年、ライトノベルと言えば何でも長いタイトルが主流だ。
例えば今季アニメ化されて放送されている作品では、『うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。』、『可愛ければ変態でも好きになってくれますか?』、『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(Ⅱ)、『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』の4つあるらしい。
正直なところ、まず僕はあまり長いタイトルが好きではない。正確に言えば''捻りのない''長いタイトルにあまり魅力を感じないのである。「これではあらすじを語っているのでは?」という気がしてくるものも枚挙に暇がない。
例えば僕は同じ長いタイトルでも、『たったひとつの冴えたやり方』とか、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』とか(そんなに長くないか?)、少し哲学的に考えさせられるようなタイトルが好みだ。尤も、僕が信仰して止まない『イリヤの空、UFOの夏』、『涼宮ハルヒの憂鬱』のように一線を画す嘗てのラノベでも終始一貫してシンプルなタイトルのものが多いのだが・・・。(特にハルヒなんかは、作者の谷川流氏が吉野朔美氏の『栗林かなえの犯罪』を書店で見てそのまま利用したとかいう話を聞いた)
しかし抑々そういった枠組みの話ではない気がしたのである。なので、前回の記事「至高の萌え属性「ツンデレ」は何故見かけなくなってしまったのか?」があわや1万PVと言うところまで来たことで調子に乗り、またしても考察をした次第である。
なお、今回上げるライトノベルは、知名度などを考慮し、原則としてアニメ化したもののみを考察対象としている。注意されたし。

1.少し前までは「4文字タイトル」が主流だった
思えば、ここまで極端に長いタイトルがライトノベルで使われ始めたのはごく最近である。抑々2000~10年くらいまでは、4文字タイトルのような短いものがアニメを中心にしてそこそこ長い間流行った気がする。この辺りは『ラブひな』や、京アニの『らき☆すた』『けいおん!』あたりの影響が大きいのかもしれない。尤もラノベだと『らき☆すた』以前にも多くあって、『ムシウタ』『まぶらほ』『いぬかみっ!』などなど・・・
あさのハジメ氏の『まよチキ!』なんかは、本来「迷える執事とチキンな俺と」という、「まよチキ」の正式名称がサブタイに入っていたらしいが、刊行の際にカットされている。4文字タイトルが流行っていた証左だろう。
しかし今はまるで真逆である。例えば、天野ハザマ氏の『最弱ランク認定された俺、実は史上最強の神の生まれ変わりでした~お姉ちゃん属性な美少女との異世界勝ち組冒険ライフ~』というもう何が何だかわからないタイトルは、元は『異空のレオスクール』というシンプルなタイトルであったらしい。しかし、恐らく編集との話し合いによって改題され、刊行されたそうだ。このことはTwitterでもそこそこ話題になった。ある意味、現況のライトノベルについての闇のようなものであり、当該のリプ欄は非難と憐憫のツイートが多く見受けられたのであった。一般小説と違ってライトノベルは、いわば漫画のように編集者というブレーントラストが口出ししていくという背景もあるのだろうが・・・。まあ、今は長いタイトルで売れるのだから、編集者の行いは間違っていないだろう。僕にとっては残念ながら、であるが。

2.何故ライトノベルに「長いタイトル」は増えたのか?
さてここが本題。何故「長いタイトル」は増えたのか?
まずタイトルが長くなり始めたきっかけとして、伏見つかさの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』が大きいと思う。上述したような「4文字タイトル」が流行りの中、「長いタイトル」として、アニメ化の際当時かなりその点に注目を集めていたような気がする。(当時僕は小3だけれど、この時点で3年ほどパソコンを扱っていたので何となく覚えている)
そして「おれいも」は爆発的なヒットを見せた。そこから2012年には『この中に1人、妹がいる!』『お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ』など妹ものも目立つ。そして13年はもっと「長いタイトル」が顕著になり『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』などなど、次第に長いタイトルが増えてきたのである。

しかしこれらはまだ序の口であった。10年代も半ばの頃、「なろう小説」なる概念の誕生である。小説家になろう自体は2004年からあるものの、2015年まででそこからアニメ化されたのは『ログ・ホライズン』のみである。そこから2016年から爆発的にアニメ化がなされたのだから、「なろう小説」と言う概念が、オタクに膾炙するという意味では僅かここ3年ほどで誕生したというのは間違いないのではないだろうか。
そうした「なろう小説」ブームを根底とすると、「長いタイトル」の理由が自ずと見えてきた。



此方の画像を見て頂きたい。これは、「小説家になろう」のトップページである。案の定、「なろう系」に象徴されるような長いタイトルが並んでいる。(しかも、4/10は全タイトルが見えていない)
お気づきだろうか。そう、トップページには小説の内容がタイトルしか見えていないのである。そうなると、なるべくこのトップページで情報を伝えたい。皆そう思うはずだ。その結果として、話の内容を伝えるために、粗筋じみた、矢鱈長いタイトルになってしまったのではないだろうか?
例えば上記で述べたもので、「まよチキ!」では何がどういう内容なのかさっぱりわからないが、「迷える執事とチキンな俺と」だったら、「あ、何らかのことで苦労を重ねている執事と臆病な主人公を描いた話なんだな」と言うことくらいは想像できるだろう。そういうことなのである。
つまりライトノベルに「長いタイトル」が増えた理由とは、「小説家になろう」において、タイトルのみで読者に情報をなるべくして伝えるためだったのである。

と、結論づけたわけだが、まだ疑問が残る。上記の天野ハザマ氏の件のような「書籍化の際にタイトルがわざわざ長くなる」のはどういう了見なのだろうか?
うーん、少し考えてみたけれど、「周りがそうだから合わせれば食いつくのではないか」と言う安直そうな理由しか思い浮かばない。先程前回の記事が1万PV近く記録した、と申し上げたがコメントも60件ほどついていた。図々しいようだがもし今回も見てもらえるのだとしたら意見を仰ぎたい次第だ。

3.余談
ここからは小見出し通り本当に余談である。上記の考察はしないし、ライトノベルからも外れたりする。

J-POP最盛期・90年代の楽曲には、今のライトノベルのような「長いタイトルブーム」が存在したといっていい。というか、ほとんどがビーイング系で、それも1993年辺りにに限ったものなのだけれど。
有名どころだと、B'zの『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』、WANDSの『愛を語るより口づけをかわそう』、DEENこのまま君だけを奪い去りたい』など。この辺のブームの理由については調べてもわからなかったし、当然僕は生まれていないので手掛かりがない。此方も誰かに協力を仰ぎたい次第である。
ただこれらの面白い所は、サビ頭がそのままタイトルになっているということである。1994年の篠原涼子の『恋しさと せつなさと 心強さと』なんかもそうだ。もしかしてタイトルを考えるの面倒になったのかなあ。
更に余談の余談だが、1993-1996年にわたって放送された超有名作品『SLAM DUNK』のOP・EDテーマ6曲(『君が好きだと叫びたい』『ぜったいに 誰も』『あなただけ見つめてる』『世界が終るまでは・・・』『煌めく瞬間に捕われて』『マイ フレンド』)は、『マイ フレンド』を除きなんと6曲中5曲が、上記のような「サビ頭がそのままタイトル」の形である。本当に面倒になったからなのでは? それはそれとしても、面白い話である。

そして現在はと言えば、そもそも邦楽自体の衰退によって目立った長いタイトルの曲は出てこないものの、「水中、それは苦しい」「0.8秒と衝撃。」「死んだ僕の彼女」「それでも世界が続くなら」とか、最早曲名なのかと言いたくなるバンド名が増えているという実態もある。もしかしたらこの辺、世代的な意味で本題のライトノベルの話とも繋がってくるのかなあ。
兎にも角にも、今の若い世代に長いタイトルはインパクトがあってウケるようである。

4.終わりに
とまあ、こんな感じでライトノベルのタイトルが長い理由について脱線しつつも考察をした。前回の時は深夜テンションなのに3時間ほどかかったのだが、今回は夕方に書いて僅か1時間ほどで完成した。量だって前回より格段に多いのに・・・。どうも、時間のあるうちにやっておきましょうということらしい。
実を言えば、僕は「なろう系」に対して大変に否定的である。あらすじじみたタイトルもそうなのだが、実際は中身のワンパターン化と言うものも大きい。この辺について語ると長くなりそうなので、また次の機会とする。
僕は齢18にして懐古厨のような人間なので、どうも新しい文化を受け入れられない。旧態依然と言うか、因循守旧というか・・・。「なろう系」を頭ごなしに否定はしないが、「小説家になろう」さんにはマンネリ化や「長いタイトル」を防ぐためになんとか対策を講じてほしいものである。
ライトノベル」と言うのは独自文化であり、「なろう系」の登場はさらにそれを加速させたといっていい。しかし僕は、どうしても在りし日のボーイ・ミーツ・ガールを手放せないでいるのだ。何か面白いことを期待して、やはり、今はただ待ち続けるのみである。

至高の萌え属性「ツンデレ」は何故見かけなくなってしまったのか?

※この記事は2019年8月13日に書いたものを再度推敲の上したためたもの

唐突に思ったことである。
涼宮ハルヒ柊かがみ惣流・アスカ・ラングレー戦場ヶ原ひたぎ、そして言うまでもなく三千院ナギ、シャナ、逢坂大河、ルイズといった我がアニメ観を彩りしCV:釘宮理恵のキャラ達・・・。 かつてオタク界隈を席巻した「ツンデレキャラ」を今ではすっかり見かけないのだ。
勿論、今でもいないわけではないだろう。しかしいずれのキャラも深夜アニメ視聴者に絶対的な知名度を誇っているとは言い難い。そのようなことを踏まえて、何故、「ツンデレキャラ」を見かけなくなってしまったのだろうか。齢18の弱い頭で少し考えてみることにする。・・・という体の深夜テンションで書いた個人的備忘録である。

曖昧なツンデレの定義

そもそもツンデレの条件って何だろうか。色々な文献を浚ってみたけれど、個人的には3種類くらいに分かれると思う。

1.「ツン」と「デレ」が同じ対象にそれぞれ並立している状態
これが一番わかりやすいかもしれない、いわば最もステレオタイプツンデレな気がする。いわば普段は冷たく接したり時には相手に暴力を振るうような人物が、時としてその相手に「べっ…別にあんたのことなんか好きじゃないんだからねっ!」と隙を見せるパターンである。大体のツンデレはこのパターンが垣間見えるといっていい。この二面性が所謂「ギャップ萌え」を引き起こすのだろう。その過程にある不器用さに萌えるのもまた良し。

2.基本的に周りには「ツン」を貫くが、特定の人物に「デレ」る状態
これはお嬢様タイプのツンデレに顕著だと思う。人の上に立つという立場上、お嬢様には何かしらの矜持がある。そんな中、彼女らの心のオアシスとして、特定の人物ならデレられるという状態を作ることによって、その対象は「自分だけを特別扱いしてくれている」という状況になる。そこにオタクは萌えているのだと思う。オタクが何者でもない社会の歯車であるなら猶更と言っていい。

3.時間経過により「ツン」が徐々に「デレ」へとなっていく状態
出会った時には[ツン 100:0 デレ]の状態だったものが、物語が進むに連れてどんどんデレの割合が上がっていくというものである。好感度のバロメーターと言ってもいいだろうか。基本的にライトノベルのように話が順繰りに進んでいくもののツンデレヒロインはこういったものが多い気がする。例えば、最初は主人公・阿良々木暦の頬にホチキスを綴じたくらいだったのに、キスの過程を経て、最終的には暦とカップルになり、ほぼデレ要素だけになった戦場ヶ原ひたぎなんかがわかりやすい。釘宮キャラも大体これではないだろうか。


ツンデレ」は’’面倒’’である
・・・とツンデレを3種類に分けてみたところで、僕はあることを思った。
ツンデレって面倒だ。
「べっ…別にあんたのことなんか好きじゃないんだからねっ!」というデレがあって初めて「ツンデレ」は成立するし、そのデレを目がけてオタクは「ツンデレ」を愛している。クーデレにしろヤンデレにしろサドデレにしろダルデレにしろ、「デレ」がなければ萌え属性として昇華しないし、オタクは振り向かないのだ。
そうなると、オタク達は「あれ、じゃあ必要なの『デレ』だけでよくね?」という結論に達してもおかしくはない。
そこで、最近のアニメトレンドを振り返ってもらいたい。以前に比べ、異世界転生無双」「日常系」のアニメが増え、全うな「ボーイ・ミーツ・ガール」が減ってはいないだろうか? 一緒くたにしてしまうのもどうかと思うが、これらは安心して・力を抜いて見ることができるアニメなのである。つまり、オタクは以前と比べて疲れてしまったのだ。そしてこれと「『デレ』だけでいい」という概念を結びつける決定的なものが、近年急速にミームとして普及したバブみという新興勢力の萌え属性である。



現代環境にフィットする「バブみ

バブみとは、言わば萌えの対象に母性を感じて甘えたい、という状態を表す感情のことである。特にロリキャラに使われることが多く、例えばゲーム『艦隊これくしょん』の駆逐艦勢なんかはそう言われることが多い。最近では、アニメ『世話やきキツネの仙狐さん』の仙狐さんがこれに当たり、ある種のダメ男製造機としてヒットを飛ばしたのはご存知であろう。
バブみという萌え属性が流行した一因は、個人的に「全肯定」という部分にあると思う。ツンデレと比較して考えるなら、「ツン」を伴わない無条件の「デレ」だ。上述したような「デレ」だけでいいと考えているオタクにはこれ以上ない萌え属性なのである。そしてこれが、SNSを中心としたインターネットを中心に、ペシミストの思考に支配されつつある世の中のオアシスとなる対象となったのではないだろうか。そしてそれが結果として、「ツンデレ」を縮小させてしまったという訳だ。



ツンデレ」の今後

さて、少々話は逸れてしまったが、上記の理由から僕はツンデレを見かけなくなってしまったと推測した。それではツンデレの今後はどうなるのだろうか。このままどんどん忘れ去られてオタク史の1ページに残るのみの死した概念となってしまうのだろうか? 個人的には、そんなことはないのではないかと思う。というのも、これも先程述べたことであるが、現在異世界転生無双」「日常系」という、謂わばツンデレがあまり必要とされないようなアニメがトレンドとなっている。これがまた、以前のように「学園系」「ローファンタジーを中心とした「ボーイ・ミーツ・ガール」の系統が流行るようになれば、再びツンデレヒロインは増えてゆくのではないだろうか。80~90年代にしたって『魔法騎士レイアース』だの『魔神英雄伝ワタル』だの『天空のエスカフローネ』だの、無双はしないかもしれないが異世界転生モノが流行ったではないか。それが少し形を変えつつもまた一周してきたということなのではないだろうか。
詰まる所、今の僕にできることはただ待つのみである。その内きっと、「べ、別にアンタのために待ってなんかいなかったんだからねっ!」と「ツンデレ」は顔を赤らめながら木陰から姿を現してくれるであろう。

このブログについて

本日2021年3月23日、ニコニコのユーザーブロマガ(以下、ニコブロ)が終了するという一報が飛んできた。まあまだ完全に決断したわけでもなさそうだったけれど、いずれにせよ今のニコニコは脆い。運営不行き届きにより全てが波に浚われた海岸から3年くらい前に漸く砂上の楼閣を建て始めたというくらいで、少し刺激を与えようものなら確実に破滅に向かうだろう。

だからいずれにせよニコブロからこちらに移すことにした。元々僕は2012年くらいからFC2でブログをやっていて(尤もよくて年一くらいの更新ペースだったけれど)、そっちでは旅の写真を(詳しくはここ→美しく生きたい)、ニコブロでは電子の海に漂う一人の人間として"お気持ちを表明"してきたのだけれど、折角貴重な感情を曝け出して、時にはニコニコ動画のヘッドラインに乗るほどプレビューが伸びたり、時には火の手も上がってしまったような内容をそのまま闇に葬っておくわけにもいかないので、こちらに移すことにした。遥か昔にアレキサンドリア図書館が燃えてしまったように、文字の損失は文化、そして人の損失である。例えしがない人間が作った文章のひとかけらであったとしても、だ。そういうことならnoteとかでもいいのだけれど、どうもあそこには使い捨ての感がする。僕の中では「ブログ」と銘打った方がしっくりくる。

そういう訳だから最初に幾つかニコブロから転載したものを改めて乗せておこうと思う。新しい記事はいつ書けるのか解らないけれど、年一でできれば十分だ。

じゃ、よろしく頼むよ。